タリアン夫人、レカミエ夫人、ジョゼフィーヌ!
フランス革命から
ナポレオンの時代になるまで
つまり
1794年のロペスピエール失脚から
1804年のナポレオン第一帝政まで
フランス史では
総裁政府(1795年~1799年)
統領政府(1799年~1804年)
の時期がありました。
そして
その統領政府期(1799年~1804年)に
社交界で花形が3人いました。
テレーズ・カバリュス(タリアン夫人)
ジュリエット・レカミエ
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
彼女たちは、
この時期の主要人物と
深く関わっていたため
フランス史に残る3美人(神?)
として知られています。
いったい
どんな時期だったのでしょう?
ロベスピエールの
「恐怖政治」時期から
その歴史と3人の美女の関わりに
ついて見てみましょう。
「恐怖政治」の時期
国民公会の山岳派を指導して
政局を掌握した
ロベスピエールは
独裁政治に進み
片っ端から邪魔者を
ギロチンにかけて
「恐怖政治」を行いました。
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネは
貴族の娘で、1779年に
アレクサンドル・ド・ボアルネ子爵と
結婚し2人子供を産んでいました。
しかし、
ボアルネ子爵は1794年にギロチンで処刑
ジョゼフィーヌも監獄に投獄されました。
ところが、
ジョゼフィーヌは獄中で、
ルイ=ラザール・オッシュ将軍と
恋人同士となったと言われています。
テレーズ・カバリュスは
ボルドーにいましたが、
そのとき、
反革命派に対する粛清を行う
派遣議員としてやってきた
ジャン=ランベール・タリアン
に惚れられました。
タリアンと愛人関係になった
テレーズは
友人である反革命容疑者を
処刑リストから外させました。
ところが
このことがパリのロベスピエールにバレて
タリアンは、パリに呼び戻されてしまいます。
テレーズも、タリアンを追ってパリに向かいましたが、
そのまま逮捕され、監獄に投獄されました。
そこで、
ジョゼフィーヌと出会い、友達になりました。
監獄では、毎日のように何人か
ギロチンで処刑されていたので
テレーズは、タリアンに監獄から釈放するよう
手紙を送り続けました。
手紙を受け取ったタリアンは、
ポール・バラスに誘われていた
クーデターの敢行を決意し、
1794年7月27日
「テルミドール9日のクーデタ」をおこし
タリアンは、議会の壇上に上がると、
短刀をふりかざしながら
暴君を打倒せよ
とロベスピエールを告発する
演説を行いました。
ロベスピエールは逮捕され
翌7月28日に、
ギロチンによって処刑されました。
この日に、
テレーズは監獄から釈放され、
1794年12月にタリアンと結婚しました。
そして、人々はテレーズを
「テルミドールの聖母」と
呼ぶようになりました。
また
「タリアン夫人」とも
呼ばれています。
一方、
ジョゼフィーヌも
8月3日に釈放されました。
「総裁政府」の時期
1795年
国民公会と革命裁判所は
解散。
総裁政府が樹立します。
5人の総裁が行政を担当し、
「テルミドール9日のクーデタ」
をおこした
テルミドール派と王党派の
二院制の議会が立法を担当しました。
ところが、
タリアンの権力は1年足らずで失い。
ポール・バラスは総裁を保持し続け、
さらにバラスの配下に
ナポレオンもいました。
タリアンは、起死回生を図り
ナポレオンのエジプト遠征に参加、
ところが、
イギリス軍に捕まりロンドンへ
そんなタリアンに愛想を尽かした
テレーズ・カバリュスは
ポール・バラスの愛人になり
1802年に帰国したタリアンと離婚することに…
一方
ジョゼフィーヌも、
生活のために
ポール・バラスの愛人になります。
この時、
銀行家ジャック=ローズ・レカミエ
と結婚していた
ジュリエット・レカミエは、
サロンを開き、元王党派を含む
多くの文人や政治家を集めて
親交を深めていました。
そこで
ジョゼフィーヌと
テレーズ(タリアン夫人)とも出会い
友人になり、
3人は社交界の花形となりました。
ナポレオンもサロンに出入りしていて
そこでジョゼフィーヌと出会い
2人は1796年に結婚しました。
しかし、
ジョゼフィーヌはナポレオンを
無骨でつまらない男と見ていて、
次々と浮気を繰り返し、
それが、ナポレオンにバレて
離婚を決意!
ところが
ジョゼフィーヌの連れっ子2人が
涙ながらの嘆願したことで、
離婚は思い止まりましたが、、
ナポレオンは
ジョゼフィーヌに対しての
愛情は冷めはじめ、
別の女性に愛情を
向けるようになったのです。
一方、離婚されそうになった
ジョゼフィーヌは
真摯にナポレオンを愛するようになりました。
総裁政府になっても社会不安は続き、
1797年になると
王党派が多数の議席を占めていき、
ポール・バラスも
バラス派とバルテルミー派の
対立がおきていました。
このとき
総裁の1人に就任した
エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスは
総裁政府の人気が低迷していることに気づき
強い政府を樹立するためには、
軍の力が必要だと思い
ナポレオンを利用した
軍事クーデターを企ててました。
1799年11月9日
「ブリュメール18日のクーデター」
が起きます。
これにより、バラスは辞職に追いやられ、
シエイエスとナポレオンは
統領政府を樹立しました。
「統領政府」の時期
シエイエスは
最高権力者にして国家元首に
なろうとしましたが
ナポレオンが、これを拒否。
民衆の人気と軍事力を背景に
ナポレオンが主導権を奪い
シエイエスを
閑職に追いやりました。
ナポレオンは、
第一統領(第一執政)となり
他に2人の統領
ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス
とシャルル=フランソワ・ルブランの
3人の統領が行政を行う
三頭政治となりました。
1800年2月7日
国民投票で新憲法が承認され、
第一統領(ナポレオン)に
全実権を掌握させ、
他の2人の統領を
単なる名目上の役職にさせました。
投票者の99.9%が賛成したそうです。
1804年5月18日
フランスを帝政に移行させ
ナポレオンを皇帝とする議案が成立
1804年12月2日
戴冠式が挙行され、
ナポレオンは
フランス皇帝に即位し
フランス第一帝政が誕生しました。
また、
ジョゼフィーヌにも
「フランス人の皇后陛下」の
称号が与えられたのです。
「第一帝政」の時期
皇帝になった
ナポレオンが、
レカミエ夫人に
手紙と部下の伝達によって、
愛人になるよう強要したが
レカミエ夫人は
これを断ります。
また、ナポレオンは
ジョゼフィーヌの浮気癖は
テレーズが原因だと思い込んでいたので、
テレーズの社交界への
出入りを禁止したのです。
そのためテレーズは
1805年にシメイ(ベルギー)の
カラマン伯爵と再婚して、
ベルギーで幸せに過ごしました。
1810年
ナポレオンの愛人
エレオノール・ドニュエルや
マリア・ヴァレフスカに子供が出来、
ジョゼフィーヌには、
皇帝の子を宿すことができずに離婚され、
かつて彼女を熱愛していたころの
ナポレオンに贈られた
思い出のマルメゾンの館で
寂しい晩年を送ることになります。
ナポレオンは
オーストリア皇女マリア・ルイーザと
再婚しました
1811年
レカミエ夫人はナポレオンと対立し、
パリを追放され、移民生活になります。
そして
1819年
レカミエ夫人は
ナポレオンによって、全財産を失い
オー・ボワ修道院に
引きこもる生活になりました。
ダヴィッドと3美人
この時代に活躍した
新古典主義絵画の巨匠
ルイ・ダヴィッド
彼も、社交界の花形3人を描いていたのです。
テレーズ・カバリュス
(制作年数不明)
「ナポレオンⅠ世と
皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式」
(1807年)では
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
を描いています。
そして
ジュリエット・レカミエ
でも、この肖像画は
他の二人の絵と違って
未完成で終わっているのです。
何故、未完成なんでしょう?
そもそも
彼女の肖像画を依頼したのは
なんとナポレオンなんです。
ナポレオンは、
レカミエ夫人を愛人にするために、
彼女への贈り物として、
ルイ・ダヴィッドに、
肖像画を依頼しました。
生まれながら美人として名高い
ジュリエット・レカミエは
15歳で結婚しましたが、
中年になるまで処女を保ち続けました。
そのため、じらすような魅力があり
数多く著名人のとりまきがいたほどです。
オー・ボワ修道院に引きこもった時でも
シャトーブリアンをはじめ政治家・作家など
多くの男性が定期的に通ったほど
彼女の魅力が失わなかったそうです。
そんな
レカミエ夫人は、
自分の黒髪をとりわけ自慢にしていました。
ところが
ダヴィッドは
画面の配色の都合上、
髪を褐色に描いてしまったのです。
ナポレオンや
ダヴィッドの絵に不満だった。
レカミエ夫人は、
あえて
ダヴィッドの以前の弟子で、
社交界肖像画家の第一人者である
フランソフ=パスカル・ジェラール
に肖像画を依頼しました。
ジェラールは、このことを
ダヴィッドに知らせると
彼はレカミエ夫人の肖像画を
描くのをやめてしまったのです。
そして
彼女が依頼した
魅力的な肖像画がジェラールの
手によって完成しました。
個人的にはジェラールより
ダヴィッドが描いた
肖像画の方が好きですね。
ジェラールのは、いかにも生々しく
魅力的な肖像画ですが
ダヴィッドの方は、
未完の絵でありながら
洗練された作品になっています。
また、
フランソフ=パスカル・ジェラールは、
ジョゼフィーヌも描いています。
ジョゼフィーヌの肖像画も
いかにも肖像画らしい。。。
個人的には
やはり
ピエール=ポール・プリュードンが描いた
「皇妃ジョゼフィーヌ」の方が好きですね。
ピエール=ポール・プリュードンは
一応、
新古典主義絵画のアーティスト
と言われていますが
彼自身はイタリアで、
レオナルド・ダ・ヴィンチや
コレッジオの絵画から
輪郭線をぼかした優美な描法を学んでいます。
なので
ダヴィッドとは
対照的な画家でした。
彼の作品には
叙情的な主題と柔らかく
溶け合う明暗によって
幻想的に描かれているんです。
彼もナポレオンから
肖像画や室内装飾の依頼を受けており
特に皇后ジョゼフィーヌに
認められていました。
そして、描かれたのが
この肖像画です。
フランソフ=パスカル・ジェラールが描いた
4年後の肖像画です。
ジェラールが描いたときは
ジョゼフィーヌは、まだ、
皇妃になっていません。
しかし、
プリュードンが描いた時は
皇妃となった翌年です。
皇帝になったナポレオンが
レカミエ夫人に愛人になるよう強要したり
テレーズを社交界から出禁にしたり
ジョゼフィーヌの周りで
変化がおきている時です。
ジョゼフィーヌの表情は
もの淋しく、どこか遠くを見ています。
いや、物思いに耽っているのでしょうか?
彼女の背景はマルメゾンの館の庭です。
そう、
ナポレオンがジョゼフィーヌに熱愛して
贈られた思い出の館です。
ジョゼフィーヌが肖像画の背景に
ここを選んだということは
もうナポレオンは
他を女性の方を向いていることを
知っているからでしょう。
あの時を懐かしむかのように。。
皮肉にも、
この肖像画を描いた
5年後に
ナポレオンに離婚され
この絵のように
寂しい晩年を送ることになるのです。
そんなジョゼフィーヌの
心理ごと描いた
この肖像画
幻想的に描かれ
とても新古典主義絵画に見えません。
プリュードンは
すでに、ロマン主義絵画を描いていたんだ
と私は思います。
まさに
くロココとロマン主義を結ぶ画家〉なのです。
ちなみに
プリュードンは
ナポレオンの2番目の妻
マリア・ルイーザにも認められていました。