世代_ポーランド映画を変えたワイダのデビュー作

ポーランド映画
世界に知らしめた巨匠
アンジェイ・ワイダ監督

その彼の
映画デビュー作が
この映画です。

でも当初は
違う人が監督をする予定でした。

脚本は当初「実習生」と題し、
ポーランド人民共和国10周年記念
に向けた映画界推奨作品として、
アレクサンデル・フォルト
[ポーランドの映画監督1908~80年]
自身が

監督することになっていた。

しかし、
脚本の段階で評価委員会から
疑義が提出された。
フォルトはメガフォンをとるのをやめ、
芸術監督として見守る
という立場に立ち、

監督を私に委ね、
ボフダン・チェシュコ
[ポーランドの小説家1923~88年]

の小説の題名を復活させたのである。
私が最初から映画制作に取り掛かったのだった。
「アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と」より

物語は
第2次世界大戦中のポーランドが舞台で
ナチスドイツ占領下のなか、
主人公の青年スタフが
周りの人々に感化され
次第にレジスタンス運動に
身を投じていく様子を描いています。

 

でも原作では

チェシュコの小説は
人民親衛隊[第二次世界大戦の
ドイツによる占領下のポーランドにおいて、
ポーランド労働党の指揮下で
活躍したゲリラ部隊]に対する
賛美一辺倒の作品ではなく、
感じのいい若者たちが出てくる
素朴な物語といった作品であった。
「アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と」より

 

チェシュコの描いた世代は
私の世代のことではなかった。
「アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と」より

この映画の”世代”は
まさにウッチ映画大学を卒業した
新人たちの世代が作ったのです。

私たち製作者は
戦争も占領も知っていた。

戦闘的な組織の中にはどこにでも、
闘争や冒険に憧れる
あのような若者がいたものだ。
彼らの中には
戦後のプロパガンダによって
記念碑が立てられ
祀り上げられた者がいたが、

忘れ去られた者もいた。
私たちは彼らを自分たちの経験に
照らしてスクリーンに映し出そうとした。
映画には間違った箇所や
拙劣な箇所があったが、
そういうものとは別に、
青春の息吹が横塧おういつしていた。
「アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と」より

 

これは頭の中で描いた物語ではないんです
アンジェイ・ワイダを含め
みんなが経験した
リアルなメッセージなのです。

終戦直後の時期に
映画製作に携わったのは、

戦前から映画界で
働いていた人々だった。

だが私たちの世代になって、
それまでとは違う、
新しいポーランド映画が生まれた。
「アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と」より

 

この映画に出演し
後に、この人も
ポーランドを代表する
巨匠になった
あの
ロマン・ポランスキー監督は
この映画について
こう語っています。

《世代》(中略)少なくとも
一見したところ、
抵抗運動をテーマとした
他の映画とたいして
変わりのない映画だった。
ワイダの脚本の内容が
ごく一般的なものと
比べて違っていたら、

当局は映画を
製作させなかったはずだ。

だが、
違っていたのは物語の
伝達方法だった。

それは映画の冒頭場面に
すでに現われていた。

出来事の大部分が起きる
オホタ[ワルシャワの地区名]の、

印象的で果てしない
全景場面が大写しされる。

ワイダは記録映画の手法を
駆使しているが、

また
イタリア・ネオレアリズモからも

影響を受けている。
しかしながら《世代》は、
プロパガンダ的な類型的人物とは
異なる登場人物が
出てくることもあって、

極めてポーランド的な
作品になっている。

この作品は、
それまで人民ポーランドで
撮られたどの映画にも似ていない。
(中略)私たちにとって
最も重要な映画である。

ポーランド映画は
ここから始まっている。

 

この映画、
全部が監督や制作側の意図どおりに
完成したものではありません。
作品としてはズタズタに
カットされた状態なのです。
それはポーランド政府の厳しい検閲けんえつ
あったからです。

映画は公開される前に
深刻な問題に直面した。
審査が芳しくなかったのだ。
ある場面は思想的表現を
強めるために改変を余儀なくされ、
また私とツィブルスキ
殴りあう印象的な場面など、
削除を迫られる箇所もあった。
結局、
世界中で賞賛された公開作品は、

ワイダのもとの編集の面影を
かすかに残したものにすぎなかった。
ロマン・ポランスキー

 

しかし
それにもまして
この映画が輝いているのは
役者たちのリアルな演技でした。

そのリアルな演技を導いたのが
主人公スタフを演じた
タデウシュ・ウォムニツキです。

ウォムニツキ
《世代》の撮影現場で、

脚本をもとに
まず登場人物たちを分析し、

次に映画全体の中で
自身の役柄が変化していく
各段階を細かく説明するのだった。
そしてまた、
最後の場面では
涙を流すことになるだろう

と予告した。
「アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と」より

映画のラストでは、
戦う意味を失った主人公に
同志たちがやってきます。

彼は、そこに希望と
全てを導いた彼女の気持ち
そして自分だけが助かった罪悪感
など、様々な感情が押し寄せてきて
思わず涙があふれ出ます。

同志たちの笑顔
そう、
我々の“世代”がやってくるのです。

このラストは
見ている私にも
なんか熱いものを感じましたね。
やっぱり
なんだかんだ言っても
全ては人ありきなんだね~。
自分一人だけでは
生きる意味はないんだね~。

と言うことで…
アンジェイ・ワイダ監督は
主人公を演じた
タデウシュ・ウォムニツキについて
さらに、こう言っています。

ウォムニツキのおかげで、
この映画に出演した
若手俳優陣の中に
一種の共通した傾向が現われ、
その結果、
戦前のポーランドで持てはやされ、
俳優たちが重視した演技とは
まったく別のスタイルが生まれた。
それは、
ポーランド映画において
絶えず観客を驚かしてきた、
芝居がかった演じ方とは
真っ向から対立する
写実的要素や
ごく自然な台詞を含む演技だった。
それを作り上げたのが
タデウシュ・ウォムニツキであり、
彼は《世代》の出演者全員に
一貫してそうしたスタイルを
追求させた。

私は映画における
写実主義のこうした教えを
しっかり心に留め、
ズビグニェフ・ツィブルスキと
一緒に行なった仕事でそれを繰り返し、
発展させることとなった。
「アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と」より

 

タデウシュ・ウォムニツキ
このあと
ポーランドの映画や演劇で活躍をし
ワルシャワ国立演劇学校の学長まで
勤めました。
しかし・・・

彼の命を救うには
心臓の手術が必要だった。
私はそれを最初に聞いた一人だった。
ウォムニツキ
話をするために私を呼び出した。
ロンドンで行なわれる
手術の費用を文化省が
支弁してくれるというのは
本当なのかどうか、
確かめようとしたのだった。
私の論法は単純だった。
私はウォムニツキに尋ねた。
「君はポーランドで
 働きに見合った妥当な給料を
 もらっていたと思うかい。
 もしもらっていなかったとすると、
 文化省が支弁するお金は
 もともと君のものなのだ 」
ウォムニツキ
私の言葉を聞いて
ほっとしたようだった。
彼の病気の知らせを聞いた
ロマン・ポランスキ
すぐさま援助を申し出ようと
したことも聞いていた。
私たちの映画《世代》
検閲によってあちこちを
削除されたが、
多くの批判者がいたにも
かかわらず削除されずに
すんだ場面が一つあった。
その場面で批判されたのは、
主として素朴な
マルクス主義的要素だった。
私はその場面に出てくる
次のような台詞を
ウォムニツキに思い出させた。

カール・マルクスという
 ひげもじゃの頭のいい人間がいた。
 マルクスによれば、
 労働者に支払われる賃金は、
 労働力を回復するに足る
 金額に限られる 」

ウォムニツキ
労働者よりもはるかに
稼いでいたことは確かだが、
その報酬は自分の労働力を
回復するだけの金額には
達していなかった。

何十本もの映画で目にし、
劇場やテレビで100以上の役柄を
こなしてきたポーランド最大の俳優、
何十人もの
ポーランド人俳優の師であり、

国立演劇大学学長であった人間が、
心臓手術のための
数千ドルのお金を
持っていなかったのである。

「アンジェイ・ワイダ映画と祖国と人生と」より

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あらすじ

ドイツ軍占領下のポーランド。
ワルシャワ郊外のプディという町
に母と暮らすスタフは、
ドイツ軍の貨物列車から石炭を盗む
という仕事を仲間の青年たちとやっていた。

ある晩、
居酒屋で木工所で働くセクワという職人に会い、
彼の見習工として、
工場に雇ってもらうことになる。

そこではヤショという青年が働いていた。

仕事柄、
夜間のカトリック系の学校に
通うことになったスタフは、
その帰り道、
抵抗運動勧誘のアジ演説をする
ドロタという少女を知り惹きつけられる。
組織に入ったスタフは、

映画.com 》より

Data

1955年 ポーランド
監督 アンジェイ・ワイダ
原作・脚本 ボフダン・チェシコ
出演 タデウシュ・ウォムニツキ
ウルスラ・モジンスカ
ロマン・ポランスキー

 

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