時は、平安時代
「奈良仏教」の腐敗堕落が
国を圧迫していた。
第50代:桓武天皇は
平安京(京都)に都を移し、
奈良の寺院が京に移転することを
禁じ「奈良仏教」を断ち切った。
そして、
行き詰まった政治の立て直しを
ある一人の僧に期待した。
最澄である。
最澄は
遣唐使として中国に渡り
当時最新の仏教を持ち帰り
日本に新しい仏教を開いた。
それは、
円・密・戒・禅の四宗融合の
“天台宗”である。
そして
日本天台宗は、
日本の仏教の母胎となり、
浄土、禅、日蓮の諸宗が
ここから派生することになった。
日本に新しい仏教を広めた
最澄
彼の壮大な夢とは
なんであったのか?
開祖
中国の南北朝末期から
隋代にかけての高僧
智顗
(537-597)
膨大な数の仏教の諸経典を、
経典相互の矛盾や不一致などから
時代別に分類・判別し、
『法華経』を、
最高の真理を説明した特別の経典とした。
そして、
『法華経』を中心に、
理論面と実践面を合わせた教学体系を完成、
天台宗を成立させた。
最澄(さいちょう)
(767~822)
近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)
の農村の村長の家に生まれた。
幼名は広野
父、三津首百枝は熱心な仏教信者で、
自宅を私寺にし、
最澄はすでに抜群の聡明さで知られていたという。
12歳で近江の国分寺に入り
行表の弟子となって
15歳で得度。
20歳で東大寺戒壇院にて具足戒を受け
僧侶になる。
しかし最澄は、
南都に背を向け
比叡山に隠遁してしまう。
仏道をきわめるまではけっして比叡山を下りぬと
固い決意をし、山中で厳しい修行をした。
その動機は、
鑑真
によって日本にもたらされた
天台宗の奥義をきわめ
自身が理想とする“仏教”を
明らかにすることにあった。
こうして比叡山にこもった
最澄は
華厳・天台の経典にひたすら
接する日々を送り、
厳しい自然環境と
貧窮のなかで
十年近い年月をすごす。
最澄の名は徐々に
知れ渡るようになり、
30歳のときには
第50代:桓武天皇
の内供奉十禅師になる。
(宮中で天皇の安穏を祈ることを職務とし、天皇の看病などにあたる)
また、高雄山神護寺では
法華経講会の講師にと、
高い地位になっていた。
804年
入唐した最澄は、
この中国の天台山で天台教学を伝授され、
同時に“真言密教”・“禅”・“戒律”も学ぶ。
805年
日本に帰国。
比叡山で
円・密・戒・禅の四宗融合の
“天台宗”を開創した。
仏法の灯を後世に伝えていくことが
自分の使命とした最澄は、
比叡山を総合仏教の殿堂とする。
また当時、
得度として僧になるには、
南部(奈良)の戒壇で
授戒しなければならなかった。
最澄は、
天台宗の南都戒壇からの独立と、
門弟の僧官としての
任用の道を開くことをめざし、
比叡山に
大乗戒壇院を築くことを、
朝廷に勅許を請願したのである。
国宝とは何物ぞ。
宝とは道心なり。
道心有るの人を名づけて国宝となす。『天台法華宗年分学生式』
仏道に精道する修学僧こそが、
国家にとってもっとも
大切な宝(人材である)
しかし、
比叡山の大乗戒壇は、
南部の学僧たちや
僧綱たちの反対にあって、
実現できなかった。
我が為に仏を作る勿れ。
我が為に経を写す勿れ。
我が志を述べよ。『伝述一心戒文』
自分が死んでも、
仏像をつくったり、
供養のための写経などをする必要はない。
すべての人びとに
仏のさとりの境地を
得させようとして発願した
大乗戒壇の設立こそ、
私の志なのだ。
この志と弟子たちや
大勢の人たちに伝えてほしい
三一権実の論争
法相宗の徳一と
最澄との間で行われた仏教宗論。
法相宗の「三乗思想」と
天台宗の「一乗思想」とでは
どちらが《権(たとえ話:方便)》で
どちらが《真実》かというもの。
大乗の人のみが成仏できる
と説いたのに対し、
すべての人が平等に成仏できる
と、
法相宗の差別的成仏を
厳しく論難した。
813年
最澄は
どうしても
「伝法阿闍梨位の灌頂」
を受けたく、
空海の弟子になることを決意。
阿闍梨とは、
弟子に密教を教えることのできる
「一流伝授」の資格のこと
その最奥の阿闍梨位とされるのが
「伝法阿闍梨位」である。
こうして、高尾山寺(神護寺)にて
「高雄灌頂」が行われた。
第1回(11月15日)は、
金剛界灌頂で受法者は4名であった。
その4名とは
和気真綱、和気仲世、美濃種人、
そして最澄である。
12月14日には
最澄が多くの弟子たちも引き連れて
大非胎蔵の灌頂を受けた。
この時点で、最澄は空海の弟子となった。
空海39歳、最澄47歳であった。
しかし、
3ヶ月が経ち
いまだ「伝法阿闍梨位」が授けられない
最澄は、空海に尋ねた。
何故なら、空海は3ヶ月で、
恵果から「伝法阿闍梨位」を授かったからである。
いつ「伝法阿闍梨位」を
授けて頂けるのでしょうか?
最澄の問いに空海は
と答えた。
最澄は、
空海の受法を諦め、弟子にそれを委ね、
天台教学に専念した。
822年6月
最澄は55歳でその生涯を閉じる。
亡くなる二ヶ月前に弟子たちに
こう遺した。
我れ生れてより以来、
口に麤言なく、
手に笞罰せず、
今我が同法、
童子を打たずんば、
我が大恩と為ん。
努力せよ努力せよ。『根本大師臨終遺言』
私は、生まれてからいままで、
荒々しい乱暴なことばづかいをしたり、
人を笞で打つようなことは、
一度もしたことがなかった。
弟子たちよ、修行をして
一人前の僧侶になろうとしている
幼ない子供たちに、決して暴力をしてはいけない。そうしてくれることが、
私にとってのもっとも大きな
いつくしみの心なのだから・・・。
「我が同法」とは、
自分と同じ仏法の道を
究めようとしている人たちのことをさしている。
最澄は、
弟子たちに対する呼びかけのことばとして、
つねに「同法」という表現を用いていた。
最澄の没後七日目のこと
大乗戒壇の勅許が下りた。
日本天台宗は、
総合仏教を
目指したものであるところから、
日本の仏教の母胎となり、
のちに鎌倉時代に、
浄土、禅、日蓮の諸宗が
ここから派生することになる。
また、
日本天台宗は
四宗を包含していたため、
当時、
中国で盛んになりつつあった
“真言密教”が比叡山でも発達し、
最澄没後、
天台宗は密教化していくことになる。
そうして確立された密教は、
空海による
真言宗の密教を
「東密」
と呼ぶのに対し、
天台密教は
「台密」と呼ばれている。
その「台密」をとくに重んじたのが、
853年に入唐し、
5年後に帰国した。
第五世天台座主・円珍。
彼は近江に園城寺(三井寺)を開いた
しかし、
やがて最澄の弟子の
第三世天台座主・
円仁
の門流との間で
密教の理解について
差異が生じ、
993年、
円仁派(山門)によって
比叡山を追われた
円珍派は園城寺に移り(寺門)、
比叡山から独立したのである。
本尊
根本的な本尊は
釈迦如来(しゃかにょらい)
とされているが
全国約3000の末寺は、
阿弥陀如来や薬師如来、
大日如来、観音菩薩、
不動明王、毘沙門天などが
祀られており、一定していない。
しかしこの場合でも、
本仏の釈迦如来が姿を変えて
出現したものとされている。
経典
『法華経』が根本経典だが
そのほか『阿弥陀経』や『大日経』など
多くの経典を取り入れている
(実際の勤行(ごんぎょう)も
「朝題目に夕念仏」が一般的)
教えの特徴
日本天台宗の
開祖・最澄は、
中国の天台宗(“円宗”ともいう)に加えて、
真言密教、禅、戒律の三宗も日本に伝えた。
そして、
これらの四宗はすべて『法華経』の
「すべての衆生はブッダになることができる」
という教えに統一融合できる
と説いている。
総本山
比叡山延暦寺
滋賀県大津市坂本本町4220
https://www.hieizan.or.jp/
門跡寺院
輪王寺(りんのうじ)
東京都台東区上野公園14-5
輪王寺
栃木県日光市山内2300
https://www.rinnoji.or.jp/
妙法院
京都府京都市東山区妙法院前側町447
三千院
京都府京都市左京区540
http://www.sanzenin.or.jp/