空海が
日本にもたらした
本格的な密教。
それは
今までの仏教とは、まるで違うものだった。
いったい空海は
どうやって密教と出会えたのだろうか?
そして、
平安二宗の
もう一人
偉大な僧・最澄
彼といったい何があったのか?
数々の伝説をうんだ
超人僧 空海
今、その物語が始まろうとしている。
生れ生れ生れ生れて
生の始めに暗く、
死に死に死に死んで
死の終わりに冥し。『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』
私たち凡夫は、なぜうまれてくるのか、
死とはどういうことなのか
という真理については
いっこうにあきらかにしていない。
空海誕生
誕生奇特
讃岐国多度郡屏風ヶ浦の豪族、
佐伯直田公の屋敷にて
眠っていた
夫人(玉依御前)が、
不思議な夢を見た。
それは天竺(インド)の僧が雲に乗って現れ、
自分の懐に入ってくるというものだった。
それから十月と2ヶ月がたち、
ひとりの赤子が合掌した姿で産まれ出た。
臨月(りんげつ)はとうに過ぎていたが、
穏やかなお産だったと言う。
774年6月15日のことである。
幼名は真魚(まお)という。
幼稚奇異
5~6歳の頃、
いつも八葉蓮華の上に座り、
諸仏菩薩と対話する夢を見ていたが、
決して口外することはなかった。
物心がつくと、泥土を固めて仏像を造り、
草木を用いて草堂をこしらえて拝んだりするのが常だった。
そんな姿は両親として常ならぬ貴きものに思われ、
我が子を貴物と呼ぶのだった。
誓願捨身
7歳になると、
早くも仏道修行に目覚めた。
どうかお姿を現したまえ
そう念じて真魚は、近郊の捨身岳の岩壁に登り、
こんな誓願を立てた。
多くの人々を導くことを誓います。
諸仏よ、私の命を永らえよ!
こうして真魚は、断崖からみずからの身を投げ出した。
すると、どこからともなく天女が現れ、
真魚の身体を優しく抱きとめるのだった。
ところが、
大学に入り文書を習って
身を立てることが最上
と母方のおじ、阿刀大足の助言により、
真魚は15歳で学問の道へ導かれる。
3年間、 阿刀大足のもとで修学。
18歳で都に大学の、明経科に入学。
儒教・道教・仏教の「三教」を修得。
わずか1~2年で大学を去る。
学業は早く成りて、
文筆の素養はすでに備わっていた。
しかし
空海の心は満たされることはなかった。
死後どれほどの利益があるというのか
空海の内で、世間的な欲望が急速に失われていくのを覚えた。
24歳のときに名著
『三教指帰』を著した。
ただし、この時の題名は
『聾瞽指帰』(ろうこしいき)
であり書として国宝になっている。
内容は、仏教の教えが
儒教・道教・仏教の三教の中で
一番優れていることを説いたものである。
空白の7年間
大安寺の勤操僧正から
求聞持の秘宝を授かった空海は、
俗世の煩わしさを逃れての苦修練行に身を投じた。
山から山に入り、
峰より峰に移って、
霞をなめて飢えをしのぎ、
鳥獣を友とする修行三昧の日々。
そんな空海に、
ついに菩薩の感応が現れる時が来た。
大龍飛剣
阿波の大瀧獄にて。
娥々たる岩山の頂に壇を構えて祈るうち、
何処かより虚空蔵菩薩の
大剣が飛来するという奇瑞が起こった。
室戸伏龍
土佐の室戸崎において、
毒龍、異類衆を降伏した。
明星入口
土佐の室戸崎にて。
夜明けどき、東の海に面した窟で一心に
「虚空蔵求聞持法」を修してると、
波の彼方に輝いていた明けの
明星が、
ふと気づくと目の前に現れ、
どんどん明るさを増し、
速度を上げて近づいてくるなり
自分の口の中に入ってきたのだった。
空海はついに、
仏(菩薩の化身=明星)とひとつになったのである。
天狗問答
室戸・金剛頂寺にて天狗を退治する。
秘経感得
だが、修行すればするほど、
空海の仏法に対する疑問は募っていった。
空海が仏に向かって一心に祈っていると、
夢の中に見たこともない人が現れ、
こう告げた。
『大毘盧遮那経』という尊い経典が大和国(奈良県)久米寺東塔の下にある。
そこに不二の教えが語られている
と。
さっそく空海は、
久米寺にゆき、その経典を見つけ出した。
空海は一心不乱に読んだ。
しかし、その意を解することはできなかった。
教えを乞うにも、
我が国に疑問に答える人はいなかった。
やがて空海は悟るのだった。
不二の法門を学ぶためには、
唐に行かなければならないということを。
空海、中国へ渡る
803年
第16次遣唐使(第一回目)は、
難破津を出航したが、
暴風に遭遇して甚大な被害を蒙り、
この年の派遣は中止となった。
空海は、
このとき得度の儀式を行い
正式な僧になった、
31歳の時である。
804年
(第二回目)第16次遣唐使には、
前回の嵐に遭った者は不吉だとして、
渡航の停止を命じられた留学僧の欠員補充のため、
空海が新たに選任された。
他に、最澄もいた。
最澄は
この時期すでに天皇の護持僧である
内供奉十禅師の一人に任命されており、
当時の仏教界に確固たる地位を築いていた。
空海は遣唐大使の乗る第1船、
最澄は第2船である。
この入唐船団の第3船、第4船は遭難した。
空海の乗っている第1船も、
暴風雨にあおられて
中国南東部の福州に漂着。
海賊と怪しまれ、
疑いが晴れるまで約50日間待機させられる。
このとき遣唐大使に代わり、
空海が福州の長官へ嘆願書を代筆している。
その理路整然とした文章と
優れた筆跡により遣唐使と認められ、
入国を許可された。
一方、
第2船の最澄は
無事入国をして、
長安に向かう一行と別れて
台州に入り、
天台山の巡礼を行っていた。
渡天見仏
空海は神童に導かれ荒野を超え、
夜叉神の引く車に乗って
天竺霊鷲山に向かい
お釈迦様の説法を聞く。
それから
空海らの遣唐使一行は、
陸路を行くこと2ヶ月。
ついに長安に入城。
805年2月、
空海は城内の西明寺に居住、
本格的に留学僧として生活を開始した。
西明寺を拠点に
城内の名僧・高徳を訪ねていくうちに、
空海はたまたま
青龍寺の
恵果・阿闍梨と出会った。
恵果は、空海の顔を見るなり、
微笑みを浮かべてこういった。
これまで秘伝を伝えるのに
ふさわしい弟子はいませんでした。私の命ももうあとわずかです。ただちに香と華とを準備して
灌頂壇に入りなさい
早速準備にかかった
空海は、
直後の6月上旬に
胎蔵法の灌頂
(師から弟子への秘法伝授の証となる儀礼)
7月上旬には
金剛界法の灌頂を受けた。
その際行われる
「投華得仏(結縁する仏菩薩を決める儀式)」
のとき。
目隠しをされた空海は、
曼荼羅の諸仏が描かれた壇の上に華を投じた。
すると胎蔵・金剛界とも、
華は偶然にも
中尊大日如来
の上に落ちたのである。
これには恵果も驚き、
と深く感心してほめました。
空海に遍照金剛
(遍く光が照らす不滅の存在=大日如来)
の名を与えることとなった。
そして、
恵果の指導のもと、
曼荼羅の制作、
経典の書写などが行われ
矢継ぎ早に秘法什宝のすべてを授与し、
恵果は空海にこう告げた。
と。
そして、空海は
「伝法阿闍梨位の灌頂」を受けた。
こうして、
すべてが終わると
みずからの役割を終えたかのごとく
12月15日の夜に、
恵果は「世を去った」
享年60であった。
一人呆然と師を追想していた
空海の前に、
恵果阿闍梨が現し身のご現とくれ、
こう告げたという。
その願いは叶えられた。次は日本に生まれ変わってあなたの弟子となろう
一方、
既に帰国していた
最澄も
不十分であったが密教を持ち帰っていた。
早良親王の怨霊に苦しめつづけられていた
桓武天皇は、
その密教に活路をもとめた。
都では、
最澄が持ち帰った
密教が異常なまでの関心を呼んでいた。
五筆勅号
長安の宮廷に、
書聖・王義之の書が書かれた三面の壁があったが、
傷みがひどくて修復したため、白くなっていた。
だれか筆をとって書きなおす者はいないかと皇帝が呼びかけたが、
みな、しりごみしたため、
皇帝は空海に書くよう命じた。
空海は、
両手両足と口の5ヵ所で筆をもち、
一気に詞を書きあげた。
皇帝は感嘆し、
空海に「五筆和尚」の称号を授け
菩提子の数珠を下賜した。
流水点字
空海が、
ある河のほとりで一人の
破れ着物をきた童子と出会った。
童子が空海に、
「そなたが日本の五筆和尚なら、
この河の水の上に文字を書いてみよ」
といったので
空海が水の上に詩を書くと、
文字は崩れることなく、
そのまま流れ下っていった。
今度は童子が、
水上に一点だけ画を欠いた
「龍」字を書くと、
字は流れずその場に浮かんだ。
ついで童子が欠けていた点を入れると、
文字は光を放ち、
轟音とともに龍と化して昇天した。
この童子は、
文殊菩薩の化身であった。
投擲三鈷
帰国の日、
明州の港で空海はこんな祈願をした。
密教を正しく伝えるために
ふさわしい場所があるなら、
これから投げる三鈷杵が
飛んでいき、
そこにとどまるだろう
空海が
空中に投じた金色の三鈷杵は、
日本の方向へ向かう
紫色の雲に乗って飛んでいき、
やがて見えなくなった。
かくして、
大日如来を教主とする不二の教えは、
「約束の地」へと伝わっていったのである。
空海との別れを惜しんで
集まった道俗らに、
この奇瑞に驚かない者はなかったという。
最澄と空海
806年
空海は、
20年間の留学期間を
無視して帰国。
帰国した空海は
まず、自ら持ち帰った経典類を
「請来目録」
としてまとめ朝廷に献上。
その内容は、
216部461巻の密教経典を中心に
仏具九種、仏画曼荼羅など10舗、
その他13種で
密教経典類は新しく日本に
伝えられたものばかりであった。
しかし、
約束をやぶって帰国したため
京へ戻る許しが得られず、
大宰府に滞在する
この期間、最澄が
空海の「請来目録」と
それに添えられた上表文を精読し、
研究していた。
809年
嵯峨天皇が即位。
許しが出て帰京する。
最澄は
空海入京の直後に、
密教経典12部
(『大日経』関係の儀軌経典)
の借覧を申し込んだ。
空海は
京都の高尾山寺(神護寺)に住して
“真言密教”の法燈を掲げる
東大寺蜂
東大寺に大蜂の大群が出て、
刺し殺される僧が
6人にもおよんだ。
人々は「大魔」と呼んで蜂を恐れ、
東大寺を忌避したが
810年
空海が東大寺別当に補せられると、
蜂は、ぱたっと出なくなった。
813年 9月
最澄は空海に
仏法の重要な教義や因縁について
討論するために、比叡山を下山して
空海のいる高雄山へ
来訪することを懇願している
『摩訶止観』を贈り、
その礼状が
『風信帖』である。
今、我が金蘭(最澄)及び
室山(室生寺の修円)と
一処に集会し、
仏法の大事因縁を商量し、
共に法幢を建てて仏の恩徳に報いんと思う
あなたの手紙を読み
雲や霧が晴れるような
ここちがいたしました。
最澄は
どうしても
「伝法阿闍梨位の灌頂」
を受けたく、
空海の弟子になることを決意。
阿闍梨とは、
弟子に密教を教えることのできる
「一流伝授」の資格のこと
その最奥の阿闍梨位とされるのが
「伝法阿闍梨位」である。
こうして、高尾山寺(神護寺)にて
「高雄灌頂」が行われた。
この時
高雄山寺で灌頂をうけたときの
受法者の名簿が
灌頂歴名(かんじょうれきめい)
である。
第1回(11月15日)は、
金剛界灌頂で受法者は4名であった。
その4名とは
和気真綱、和気仲世、美濃種人、
そして最澄である。
この文章には、
投華の結果、それぞれが、
結縁した仏菩薩名まで記されている。
12月14日には
最澄が多くの弟子たちも引き連れて
大非胎蔵の灌頂を受けた。
この時点で、最澄は空海の弟子となった。
空海39歳、最澄47歳であった。
しかし、
3ヶ月が経ち
いまだ「伝法阿闍梨位」が授けられない
最澄は、空海に尋ねた。
何故なら、空海は3ヶ月で、
恵果から「伝法阿闍梨位」を授かったからである。
いつ「伝法阿闍梨位」を
授けて頂けるのでしょうか?
最澄の問いに空海は
と答えた。
最澄は、
空海の受法を諦め、弟子にそれを委ね、
天台教学に専念した。
このとき空海の
「中寿感興詩」には
浮雲はどこに現れるのか、
本をただせば浄らかな虚空に生まれたものだ。我が心の趣を語ろうとすれども、
三曜(日・月・星)は
天に朗らかに輝いているではないか
と書かれていた。
そして、
委ねたはずの弟子・泰範が、
最澄を捨て空海の弟子になった。
最澄は、
密教を諦め、空海と訣別する。
高野山へ
815年 4月
空海は大々的に密教の宣布活動を開始した。
「観縁疏」には、
四家大乗と密教との
相違・優劣を明らかにした。
816年 4月
空海は、
大和国宇知郡で、ひとりの猟者に出逢った。
密教相応に地を尋ねたところ、 猟者は
知るところの山地、万許町。
その中に幽かなる平原あり。
霊瑞いたって多し。
和尚、来住したまわば、
自ら助成せん
と応えた。
紀伊国との境の大河のほとりにいたって
ひとりの山民に出会い、
南山へ案内してもらい
伽藍建立の地に最適であることを確認した。
山民は、
則ち之の領地を献じて威福を増さん
と、この地を譲渡された。
女神献田
6月に入り
高野山への途中に天野宮があり、
はじめて高野山に登ったとき、
丹生津比売命は託宣して
万許町の地を空海に献じた。
三鈷宝剣
いよいよ伽藍を建立するために樹木を切り払っていたところ、
一本の木に唐から投げた三鈷杵を発見し、
まちがいなく密教相応の地であるとの確信を得た。
また地中から一本の宝剣を発見した。
同年、金剛峯寺を開創した。
823年に賜わった教王護国寺(東寺)と合わせて
この二寺を密教の根本道場とした
そして、
貴賤貧富の分別なく
学生を募り、
仏教のみならず儒教や道教。
さらには陰陽・法律・工芸・医学・音楽など
幅広く学問を教える総合学問
「綜芸種智院」
を開設した。
しかし、空海は
高野山に常時滞在していたわけではなく、
京と高野山を何度も行き来していた。
空海の伝説が各地に生じたのも、
この間に由来するものである。
「弘法大師(空海)伝説」は
全国に300篇以上あると言われています。
弘法大師(空海)伝説
桂谷降魔
空海が伊豆国の桂谷山寺(修禅寺)で、
虚空に『大般若経(だいはんにゃきょう)』魔事品を書くと、
そのとおりに文字が現出した。
神泉祈雨
無熱池に住む
善女龍王(ぜんにょりゅうおう)を
宮中の神泉苑に勧請し、
祈雨法を修して雨を降らせて密教の力を示した。
小児活生
和泉国大鳥郡の
寡女(かじょ)が生んだ男子が、
狼に食われた。
嘆き悲しむ寡女(かじょ)を哀れみ、
空海が「蘇生呪(そせいじゅ)」を誦したところ、
男児はたちまち生き返った。
天地合字
行基(ぎょうき)の弟子の
妻から供養を受けた空海が、
お礼として柱に「天地合」の三文字を書いた。
この文字を削って飲むと、
瘧病は必ず癒えた。
文字は柱の奥まで深く染み込んでいたため、
何度でも削りとることができ、
今なお墨痕が残っている。
禅僧与油
禅僧が油を乞うた。
そこで空海が石巌を加持したところ、
そこからたちまち油が涌出した。
けれども、
空海が別の場所に移ると、
油は淡水に変じた。
観法無碍
空海が水輪観(すいりんかん)の
瞑想法を行じると、
室内が碧(あお)い水でいっぱいになった。
また、
覧字観(らんじかん)という
瞑想法を行じると
堂内は赤炎で満たされた。
守円呪咀
守円(守敏)僧都という験者がおり、
殿上で生栗を加持によって茹であげ、
天皇に献じるという法力を示した。
空海が参内したとき、
天皇はこの栗のことを空海に話し、
そなたもできるかとたずねた。
そこで空海は、守円を呼んでもう一度、
同じ加持をやさせてくださいと頼み、
物陰に隠れて守円の加持を封じた。
そのため栗は茹であがらず、
面目をつぶされた守円は空海に呪咀の調伏をしかけた。
空海も対抗して不動明王に変身して呪咀を返し、勝利した。
弘法大師水伝説
空海は、
「水にまつわる伝説」も多く
“弘法清水(こうぼうしみず)”
とも呼ばれてました。
東京下谷(したや)
清水稲荷(しみずいなり)に
あった清水は、
空海が独鈷(とっこ)で
地面を掘って湧かせたと伝えられる。
岩手県紫波(しわ)郡紫波町
空海が
はたを織(お)る女に水を乞うたが、
女は水がないと断ったので、
綱峰というところで川に
錫杖(しゃくじょう)を立てると、
川の水が涸れてしまったという。
青森県九戸(ここのへ)郡
空海が村里にやってきて水を頼んだ。
その村には、よい水はなかったのだが、
善良な村人が遠くから清水を運んできてくれた。
そこで空海がもっていた
錫杖(しゃくじょう)で地を突くと、
そこから清水が湧き出てきた。
空海が去ったあと、
村人は
弘法大師(空海)だとわかり、
それ以来、その水は
“弘法清水(こうぼうしみず)”
と呼ばれるようになった。
空海の入定
835年
死を悟った空海は高野山で入定する。
(瞑想をして生きたまま仏になること)
62歳であった。
50日後、その体は
奥之院の御廟(霊をまつる殿堂)に移される。
それから86年後
醍醐天皇の夢枕に空海が立って
と詠(よ)んだ。
驚いた醍醐天皇は
“弘法大師(こうぼうだいし)”
の称号を授けました。
そして、天皇から頂いたお祝いの着物を
納めようと僧たちが、
御廟を開けると、
なんと、
亡くなっているはずの空海が、
ヒゲと髪の毛を伸ばしていて、
生前と変わらぬ肌のままで座っていたそうです。
驚いた弟子たちは、
ますます信仰心があつくなり、
今でも生きて世の太平を祈願しておられる
と信じられ、
今でも1日2回、
早朝6時と午前10時30分に
お食事が届けられています。
このお食事をお届けする儀式を
「生身供」と呼びます。
こうした空海の数々の伝説が、信仰になり
高野詣や
四国八十八ヶ所霊場を巡礼する
お遍路さんが、
今でも根付いているのです。
高野詣(こうやもうで)とは、
永遠の生命と呪力をもった
弘法大師の御廟にもうでて,
その功徳利益を受けることです。
虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば
我が願いも尽きなむ。『性霊集』
空間的には無限の大宇宙(虚空)が
終末を迎え、
いっさいの生きとし生けるもの、
すなわち、迷える衆生のすべてがいなくなり、
迷いの世界を超越したところにある仏のさとりの境地
すら消滅してしまったとしたら、
迷いの世界にあって
生死流転をしているすべての人々を救済したいという
自分の願いも終わりをつげることになるだろう。
終
お疲れ様でした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。