「智」は『論語』の中では、
知と表記されていています、
その意味は
【聡明】理解力があって(人格にすぐれ)賢いこと
【明智】 すぐれた智慧
【智謀】 智慧にあふれる
などのことを指します。
また、『論語』では
「智の人」、つまり
「智」を身につけた人が語られます。
「智」を身につけた人とは、どんな人なのでしょう?
子曰、
君子道者三、
我無能焉、仁者不憂、
知者不惑、
勇者不懼、(憲問 14-30)
孔子、曰く
わたくしにはできない。
智の人はまどわない、
勇の人は恐れない。
自分には、できないと
孔子が謙遜して言っていますが
それほど、この3つを修得するのは
並大抵のことではないことがわかります。
「智の人はまどわない」
とはどういうことでしょう?
“惑う”とは
行く先が見定(みさだ)められずに、
どうしていいか分からない
心が混乱していることを意味しています。
つまり、
何も分からないから
心が混乱するんですね。
たしかにそうですね
立派な大人は、
心が安定していて
常に落ち着いています。
心を安定させるためにも
「智」を身につけたほうがいいかもしれません。
ここでは 「智の人」とは
具体的にどんな人なのか?
それをこれから読み解いて見ましょう。
智は仁によって支えられる
不仁者不可以久處約、
不可以長處楽、
仁者安仁、知者利仁、(里仁 4-2)
仁でない人は
いつまでも苦しい生活には
おれないし、
また長く安楽な生活にもおれない。
仁の人は仁に落ちついているし、
智の人は仁を善いことと認めて活用する。
ここで「仁」が出てきます。
「仁」とは
簡単に言うと「人を愛すること」ですが
【恭敬】 つつしみうやまうこと。
【寛厚】 心が広く、態度が温厚なこと
【誠実】 まじめで、真心があること
【勤勉】 仕事や勉強に一生懸命に励むこと
【慈恵】 慈愛の心をもって他に恵み施すこと
の5つの美徳を含んでいます。
この5つの美徳を身につけて
「仁の人」となるのです
仁でない人は、
人との信頼関係を
長く維持することができないし、
人との信頼関係が崩れてしまうと、
心は楽しくいられない。
つまり、
心が楽しい状態を
長く維持することができないのです。
だから、
仁であることそれ自体が
心の安定性の根拠なのです。
”知者利仁”
(智者は仁を利とす)
「智の人」は
「仁」を良いことと認めて行っています。
里仁爲美、擇不處仁、焉得知、
(里仁 4-1)
それ自体が美しいことだ。
進むべき道を選択しようとするのは、
それ自体、もはや仁ではありえない。
まっすぐな分岐なき道が、
きみの前に広がっているはずだからだ。
どうして進むべき道を
知ることができようか。
「仁」は、
二人の人が一緒にいる時に
生じるもので、
人と人との間に生まれた
(無意識の)倫理道徳とも言えます。
5つの美徳を備えていれば、
その人は相手から信頼され
そして支えられるのです。
智は失言しないし人を失うことはない。
可與言而不與之言、
失人、
不可與言而與之言、
失言、
知者不失人、
亦不失言、(衛霊公 15-8)
話し合うべきであるのに
話し合わないと、
相手は去ってしまう。
話し合うべきではないのに話し合うと、
言葉が無駄になる。
智の人は、
相手に去られることもなければ、
また言葉を無駄にすることもない。
「智の人」は
何を話すべきかを理解しています。
それは、
相手や状況に合わせた内容で
何を話すべきかを
理解していることなのです。
やたら、
知識をひけらかす人や、
よく喋る人は
「智の人」ではないのです。
それは、
「仁」を行っていないからです。
だから、周りの人も気にせず
自己中心的に喋りまくる。
しかも、
心も安定していないので、
余計に話が長くなる。
古者、
言之不出、
恥躬之不逮也(里仁4-22)
自分の考えを軽々しく口にしなかったのは、
いったことが実践できないことを
恥じる気持ちを持っていたからだ。
現代は、
「言ったもの勝ち」で
思いついたことを
バンバン話す人がいるが
内容によっては
「大言壮語」になります。
つまり、
実力以上に大きな事を
言っているのです。
そんな人は結果的に信用されていなし
相手にもされていない。
さらに
言った言葉さえ憶えてもらえない。
「智の人」は
一言の大事さを知っている。
だから、言葉を選んで話をする。
君子一言以爲知、
一言以爲不知、
言不可不愼也、(子張 19-25)
ただ一言で愚かともされる、
ことばは慎重でなければならない。
人生で出会いというのは、
ありそうでなかなか無いものです。
でも、せっかく人と出会ったのに、
たった一言で終わることは
よくあることです。
人を失わず、失言もしないためには、
相手を理解することから始まります。
そう、相手を理解することも
「智」なのです。
孔子の弟子の
樊遅という人が
「知」について孔子に質問すると、
孔子は彼に「人を知ることだ」と答えました。
樊遅問仁、子曰愛人、
問知、子曰知人、
樊遅未逹、
子曰、擧直錯諸枉、能使枉者直、
樊遅退、見子夏曰、
嚮也吾見於夫子而問知、
子曰、擧直錯諸枉、能使枉者直、何謂也、
子夏曰、富哉是言乎、
舜有天下、選於衆擧皐陶、不仁者遠矣、
湯有天下、選於衆擧伊尹、不仁者遠矣、(顔淵 12-22)
孔子の弟子である
樊遅が
仁のことを孔子におたずねすると、
孔子先生は
といわれた。
智のことをおたずねすると、
といわれた。
樊遅はまだよく分からなかった。
先生はいわれた、
邪悪(よこしま)な人々の
上に位(くらい)づけたなら、
邪悪(よこしま)な人々も正しくさせることができる。
樊遅は退出してから
子夏にあって話した、
うちの先生におあいして
智のことをおたずねしたが、
先生は・・・
邪悪(よこしま)な人々の上に位づけたなら、
邪悪(よこしま)な人々も正しくさせることができる。
子夏はいった、
大勢の中から選んで
皐陶(こうよう)をひきたてたので、
仁でない者どもは遠ざかった。
大勢の中から選んで
伊尹(いいん)をひきたてたので、
仁でない者どもは遠ざかったのだ。
「智の人」と「仁の人」の違い
先程の話で、孔子先生は
「智」は「人を知ること」
「仁」は「人を愛すること」
と言っていましたね。
だから
「智の人」は「仁」が良いことと
認めて行っているというのも
「人を知る」からなんですね。
では、さらに
「智の人」と「仁の人」とは
具体的にどのように違うのでしょうか?
『論語』には、こう書いています。
知者樂水、
仁者樂山、
知者動、仁者靜、
知者樂、仁者壽、(雍也 6-23)
智の人は(流動的だから)水を楽しみ、
仁の人は(安らかにゆったりしているから)山を楽しむ。
智の人は動き、仁の人は静かである。
智の人は楽しみ、
仁の人は長生きをする。
「智の人」は思考が活発であるから、
流動的で水のように様々のことにぶつかっても気にしない。
しかも満ち足りているので、充分楽しんでいるのです。
まとめ
最期に「智の人」とはどういうものかをまとめてみます。
「智の人」とは、
まず、「仁」をよいことと認めて利用することで、
人との信頼関係が長く保たれ
心が楽しい状態が長く維持することができる。
しかも、一言の大切さを知っているので
失言して人を失うこともありません。
さらに
思考が活発だから、
様々なことにぶつかっても気にしない。
すべてが満ち足りているので
充分楽しんでいるのです。
つまり
人を知ることによって
交流も広く
それによって
進むべきみちが広がっている
人との信頼関係が厚いので
何か問題があっても、
助けてくれる人がいる。
また、知識が豊富で臨機応変に対応でき
頭の切り替えが早いので過ぎたことを忘れ
次の事も考えられる。
“惑う”ことはないのです。
これが「智の人」なのです。