前回は、この映画が
「オイデップス王」の物語で
そこに、パゾリーニ監督は
“エディプス・コンプレックス”を
取り入れて映画化した。
という話でした。
でも、
映画の後半を見ていると
どうも違う、
話は終わっているのに
物語は続いていて
1960年代の観光地や工場地帯
生まれた場所、野原と展開していく、、、
その意味が
さっぱり解らない
そこで終わりましたね。
このままでは
納得がいかない
特に気になるのが
笛のメロディー
観光地と工場地帯で
吹くメロディーが違うんです。
特に工場地帯で
吹くメロディーは
なんか、
心に刺さるんですよね~
と言うことは
この笛のメロディーに
何やら監督のメッセージが
込められているはず。。
そこで、まず
パゾリーニ監督は、ここまで
どう歩んできたかを見てみましょう。
パゾリーニの生い立ち
ここまで見てみました。
ん~、
これを見ると
やはり
“エディプス・コンプレックス”
かな~
父を憎み
母を愛していた
みたいですね。
では、
今度は
映画の本編に戻りましょう
今回は参考資料として
花野秀男訳の
『パゾリーニによるオイディプース王』
を見ながら検証してみましょう。
王宮前の広場
まず、1960年代に戻る
前のシーン
オイデップス王物語のラストからです。
45 王宮前の広場
オイディプース
こうすればもう悪を見ないで済む……
わたしが苦しんだ、仕出かした悪を……
闇のなかでは、いまでは、
見るべきでないものを見ることはない……
わたしが識ろうとしていた人びとを
識ることはもうないだろう……(中略)~
あの下のほうで……
オイディプースがフルートを
唇にもってゆく……
そして最初の音を出す……
そしてそれから第二の音を……
そして少年が、後ろから、
彼を励ましている……そしていまオイディプースが吹く、
──盲た乞食、預言者が──
なおたどたどしくあどけなく、
あるメロディーを、
その幼年時代のメロディーを、
テイレシアースの神秘的な
愛の歌のメロディーを、
宿命の前であり後である
あのメロディーを。埃だらけの街道の奥に、
遠く二人の姿は見えなくなる。
『パゾリーニによるオイディプース王』花野秀男訳
ん~、
映画だと縦笛なんだけど
シナリオだとフルートになっているな~
でも一説によれば
フルートといえば
縦笛だったみたいです
昔はフルートと言えば縦笛だった!?
まあ
それはともかく
やはり
ここで肝心なのは
メロディーだね
とくに
幼年時代のメロディー
と
宿命の前であり後である
あのメロディー
この2つがポイントだね
まず
宿命の前であり後である
あのメロディー
ですが
”宿命”
と書いてありますね。
実は
「オイデップス王」には
“エディプス・コンプレックス”
以外のテーマが
いくつかあります。
その1つが
この”宿命”です。
"逃れられない宿命"
が描かれています。
我が子に殺されるという
宿命を避けるために、
その子を殺すよう命じた
テーバイ王のラーイオス。
そして
父殺しという
宿命を避けようと、
育ての親から離れ
放浪の旅に出る
オイディプス。
でも
結局、
宿命から逃れることは
できませんでした。
もう1つのテーマは
”知るということの意味”です。
父親殺しを追及した結果
不幸が訪れましたね。
人間には知的探求心があります。
これは本能なのでどうしようもない。
でも、
知りすぎたことで
不幸になることの方が多いかも。。。
「オイデップス王」では
知るということの1つに
”自分探し”があります。
自分は何者なのか?
何のために自分は生まれたのか?
これが
シナリオの
幼年時代のメロディー
にかかりますね。
さあ
このシーンで
「オイデップス王」の
物語は終わります。
そして
パゾリーニの
“エディプス・コンプレックス”
も終わる。
このあとは
パゾリーニの
幼年時代のメロディー
と
宿命の前であり後である
あのメロディー
そう!
自分探しの旅が始まるのです。
観光地
46 広場
歴史と文明の徴のある大きな広場がある。
~(中略)~
それはブルジョア階級が
その習慣を祝って、
その偉大さに思いを凝らす場所のひとつだ~(中略)~
オイディプースとその若い導き手は、
脇の道からやって来てそこに、
暮らしの渦巻きの埒外の、
いくらか外れたその場所に着く。オイディプースは腰を下ろして、
髪は長く伸びて手入れをしない
髭は埃まみれの老いた乞食や
預言者のなりで、
そのフルートを吹き鳴らす。メロディーはブルジョアの
イタリア統一運動か
(それとも革命運動か?)の、
自由のための闘いの歌のメロディーだ。~(中略)~
人類がその怠惰と息切れと一緒に、
その宿命的な歩みをまた見出す
何千時間ものうちの
一時間である時の出来事、
仕草、足取り、眼差したち。~(中略)~
そしてその間もオイディプースは
そのフルートにあのメロディーを
そっと吹き込む、
するとその調べが、
彼のまわりのすべての事物に、
歴史のあの甘美なざわめきに、
意味を与える。やがて、突然、吹くのを止める、
まるである思考によって、
直ちに息を切らせながら
実現せねばならないある考えによって、
呼び戻されたかのように。
彼は手探りで進みながら、
せっかちにじれったがって
その案内役を探す。『パゾリーニによるオイディプース王』花野秀男訳
1960年代の
観光地でのシーンですね。
イタリア王国の
名残でもあります。
さあ!
ここで吹いていた
メロディーは
イタリア統一運動!
自由のための闘いの歌のメロディー
だったんですね。
イタリア統一運動とは
何でしょう?
イタリア半島は
19世紀の初頭まで
イタリア人のサルデーニャ王国
オーストリア帝国領(北イタリア)
ナポレオンのフランス軍駐屯地
(中部イタリア・教皇国家)
ノルマン人などの両シチリア王国
(南イタリア、シチリア島)
など8~12カ国が分立していました。
それを
イタリア人である
サルデーニャ王国が
イタリア半島を占領し
イタリア王国を成立したのが
イタリア統一運動です。
成長していく思春期は
まだ
イタリア王国
だったんですね。
古い貴族の末裔であった
パゾリーニは
やはり、
そこにこだわる
のです。
私の生れは明らかに、
プチブルジョワ的な
イタリア社会の典型です。
私はイタリア統一の産物なんです。
父がロマーニャ出の古い家柄に
属していたのに対して、
母は後にプチブルジョワになった
フリウリ地方の農家の出身です。
母方の祖父は酒造家でしたが、
祖母はピエモンテの人で、
シチリア人やローマ人に
親戚がありました。
だから私のなかには
イタリアのいろんな階級や
階層の要素が入り混じっています。
しかし
私が強調したいのは
父が貴族出身にもかかわらず
イタリアのプチブルジョワだと
いうことです。
ジョン・ハリディ著
「パゾリーニとの対話」より
プチブルジョワとは、
中産階級のことです。
中産階級とは
資本主義社会の中で、
資本家階級(ブルジョア)でもなく
労働者階級(プロレアリア)でもなく
その中間にある階級です。
日本だと
上流階級と労働者階級の
間の中流階級
と言った方が
わかりやすいかも?
物語に戻ります。
貴族の末裔であった
パゾリーニ(オイデップス)は
その
イタリア王国の跡地で
佇みます。
しかし、
そこは
資本家階級(ブルジョア)が集まる
観光地になっているのです。
当時は金持ちしか
観光旅行できなかったので・・・
ここにいると
貴族の末裔より
プチブルジョワ 中産階級
である自分を
思い知らされるのです。
いずらくなった
パゾリーニ(オイデップス)は
自分のやるべき場所を探し
移動します。
工場地帯
47 郊外の工場街
巨大で、平たく、軽い、
工場という工場が
北国の晴れた朝の
くすんだ地平線全部を占めている。~(中略)~
あそこに、工員たちが工場へ
行きながら通るあの場所に、
オイディプースと
彼を導く少年が向かっている。彼らはそこに腰を下ろす。
そしてオイディプースが
そのフルートに息を吹き込む。こんどはメロディーは
民衆の蜂起、
パルチザン闘争の歌のメロディーだ。
するとそれが、
不可解にも感動的なことに、
辺りのものすべてに
ひとつの意味を与えるように見える。
労働者たちの通過に、
遠く近くの交通に、
あの遠いバス停で
バスを待つ民衆の人びとの群れに。~(中略)~
オイディプースはそのフルートで、
こうしたことの意味である
あの曲を吹くことに夢中で、
われを忘れている。溶暗。
『パゾリーニによるオイディプース王』花野秀男訳
工場地帯ですね。
ここで吹く
メロディーは
民衆の蜂起、
パルチザン闘争の歌のメロディー
とシナリオでは
書いてありますが
映画では、
違っていましたね。
このシーンで
吹かれたメロディーは
『同志は倒れぬ』です。
ロシアのマルクス主義者・革命家
の葬送曲です。
かつて
パゾリーニは
共産党に入党していました。
共産主義のみが、
新たな文化を提供できる
と考えて。。。
共産主義とは
簡単に言うと
土地や資本や財産をすべて
国民のものとし
国民全員に均等に分配することで
みんなで共有する
平等な社会体制をめざすものです。
この共産主義は
主として
ドイツの
カール・マルクスと
フリードリヒ・エンゲルス
によって
体系づけられた
マルクス主義思想をさし、
プロレタリア革命によって
実現される人類史の発展の
最終段階としての社会体制なのです。
マルクス主義思想では、
資本主義は
資本を持っている人が
富を独占して、
人々の間に
貧富の格差が生まれる
と考えていました。
だからパゾリーニは
共産主義を目指したのです。
ところが、
共産党を除名させられた。。。
そして、目の前では
資本主義を現す工場地帯
『同志は倒れぬ』は
失った理想へのレクイエム
その歌詞は
fa-music正義にもゆる戦いに
おおしき君はたおれぬ
血にけがれたる敵の手に
君は戦いたおれぬ
プロレタリアの旗のため
プロレタリアの旗のため
踏みにじられし民衆に
命を君は捧げぬ
んっ、
いまいちピンとこないな~
実は、この歌詞は
小野宮吉さんが
書いた日本語版のもので
本場、ロシアの歌詞は
こうです。
fa-music悲運の闘いに斃れたる君よ
人々への無私の愛に散った君よ
君は能うかぎりの すべてを捧げた
栄光といのちと自由のために
ときに湿った監獄の闇に耐え
無慈悲な法の裁きをしのび
ときに迫害者たちの悪罵を浴びて
足枷の鎖 引いていった君よ
この曲が工場で働く
労働者階級(プロレアリア)の
映像とあわさって
なんとも言えない。
当時のイタリアでは
アメリカ型の消費社会が
台頭し始めた時代に
なっていました。
fa-exclamation-circle
消費社会(消費主義)とは
資本主義が発達し、
企業のシステム化が進むと共に、
ほぼ全ての国民が、
企業が供給する商品を
「不必要だったものを必要なもの」
として消費者の購買意欲をそそること
(TV-CMや新聞広告等のメディア)
によって、享受できる
社会することです。
不必要だったものとは
人間が生きていくために
最低限必要なもの(衣・食・住)
以外のものです。
例えば
アルコールやゲームは
人間が生きていくうえで
最低限必要なものではなかったはず
でも快楽を知ったことで
生きていくうえで
(ストレス発散などで)
必要なものになってしまった。。。
そんな消費社会が
1960年代後期から急速に
イタリアの社会を破壊した
元凶と考えています。
そして、
産業化(ブルジョア化)する
以前の文化を
「純潔さ」と見ており、
それが
次々に失われていると
感じていたのです。
また
1960年代後半から
1970年代初頭にかけて、
イタリアでは
学生運動が激化します。
その内容とは
核兵器反対、ベトナム戦争反対
などありますが
主に
資本主義に反対する動きでした。
しかし
パゾリーニは
学生運動に対して
彼らは
人類学的に
中産階級であり、
革命的な試みには
失敗する
運命にある
と考えていました。
そうです。
運命、
つまり
”宿命”
なのです。
パゾリーニも
”宿命”から
逃れることが
出来ないのです。
そして
我々も
資本主義から
脱却できない
”宿命”なのです。
何とも言えない
感情が
こみあがってきた
彼は
この工場地帯にも
いられなくなります。
そして
次なる場所へ移動します。
いよいよ
ラストシーン
ところが
そのラストシーンは
意外な場所だった!
話が長くなりましたので
この話の続きは次回