フランス革命戦争を終結した
ナポレオン・ボナパルトは、
1804年に
フランス皇帝として戴冠した後
今度は
ヨーロッパ全土にわたる
征服戦争を展開しました。
なぜ、ナポレオンは
征服戦争を始めたのでしょう。
ここでは、
ナポレオンの戦争と
彼の思想によって
変貌するアートを見てみましょう。
ナポレオンの家系
ナポレオン・ボナパルトの本名は
ナブリオーネ・ブオナパルテ
イタリア人なんです。
ブオナパルテ家の先祖は血統貴族でした。
血統貴族とは「パトリキ(貴族)」
のことです。
パトリキとは、
古代ローマにおける支配階級で、
元老院議員や執政官(コンスル)の地位を
世襲して独占していた家柄のことです。
16世期、ブオナパルテ家は
ジェノヴァ共和国の傭兵隊長として
コルシカ島に移住。
でも、ジェノヴァ共和国領である
コルシカ島には貴族制度がありませんでした。
貴族じゃないブオナパルテ家。
1729年に始まった
コルシカ独立戦争で、
フランスが
コルシカ島の領有権を獲得。
ナブリオーネの父カルロは
フランス側へと転向!
総督マルブフと親しくなり
フランス政府から正式に
古い血統の証明資格を認められたことで、
ブオナパルテ家は
晴れて貴族の仲間入りを果たします。
そして
ナブリオーネを
本土の士官学校で
学ばせることができました。
では何故、
ナブリオーネは名前を変えたのでしょう?
それは
前回の映画「ナポレオン」にも出てますが
フランス軍の中尉となっていましたが
勃発したフランス革命には関心なく
故郷のコルシカ島に長期帰郷していました。
ナブリオーネは
コルシカ民族主義者だったので
コルシカ島独立指導者
パオリを
崇拝していました。
ところが、
パオリはイギリスの間接統治を
主張するパオリ派を形成。
それを知った国民公会は
1793年、パオリ逮捕命令を発しました。
パオリ派は、これに従わず
フランス軍人ナブリオーネの
ブオナパルテ家を島から追放しました。
そして、
1794年、
パオリはイギリス統治を受け入れ、
コルシカ島は
アングロ=コルス王国になります。
コルシカ島を追われ、
家族そろってフランスの
マルセイユに移住したナブリオーネは
ここで初めて名前を
ナポレオン・ボナパルトと
フランス風に改名しました。
そして、いままで
フランス革命に無関心だった
ナポレオンはフランスで生きていくために
わずか一か月で己の政治信条を語る
小冊子『ボーケールの晩餐』を書きました。
この『ボーケールの晩餐』を
”ロベスピエールへのゴマすり本”
という人がいますが
それだけでは、ないと思います。
ここでナポレオンが皇帝として
進むべき基盤を作ったと思うからです。
そして、ナポレオンは
原隊に復帰すると
みるみる昇格していき
砲兵隊長に大抜擢されます。
ナポレオンとダヴィッド
1799年、
ナポレオンのクーデターによって
総裁政府が倒れると、
ナポレオンは
統領政府を樹立しました。
ナポレオンは、
第一統領(第一執政)となり
他に2人の統領
ジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス
とシャルル=フランソワ・ルブランの
3人の統領が行政を行う
三頭政治となりました。
この三頭政治は
これが初めてではありません。
実は
”共和制ローマ”から
なぞられたものなのです。
共和制ローマは
紀元前509年の王政打倒から
紀元前27年の帝政開始までの
古代ローマのことをいいます。
ここで第一回三頭政治が結成されました。
最も重要な政務官は執政官(コンスル)で、
その命令権(インペリウム)は
王の権力から受け継がれたものともいわれています。
ナポレオンの家系は
「パトリキ(貴族)」
元老院議員や執政官(コンスル)の地位を
世襲して独占していた家柄のことです。
つまり、その
「パトリキ(貴族)」を復活させたんですね。
さらに、
共和制ローマの三頭政治には
執政官(コンスル)である
ガイウス・ユリウス・カエサル
がいました。
そう、後に
帝政ローマの最高支配者となった
最初の「ローマ皇帝」です。
これで、ナポレオンの考えが
解りましたね。
共和制ローマは
紀元前509年の王政打倒から
紀元前27年の帝政開始まで
フランス革命も
王政打倒から始まって
共和政となり、三頭政治へ
次に来る時代は帝政
ナポレオンは
肩まで、
もじゃもじゃ伸びていた髪を、
古代ローマ風に
首筋あたりまでの長さに刈り込んで
ある人の再来と見せました。
そう、カエサルの再来です。
そしてナポレオンは
皇帝になるイメージを
国民に植え付けるため
新古典主義絵画の巨匠
ルイ・ダヴィッドと
その弟子たちに依頼し
プロパガンダの手段として
自分のイメージを高め、
軍事行動や帝政を美化するために
利用しました。
ナポレオンは
アルプス越えをする騎馬像を依頼、
実際に乗ったのはラバだったが、
”荒々しい馬の背に落ち着き払って
乗る姿”を描くよう注文しました。
ダヴィッドは、
この作品から
4枚のレプリカを仕上げています。
ダヴィッドの弟子
ドミニク・アングルは
この若き第一執政官を、
行政命令書の上に手を置く姿で表しました。
新古典主義絵画とは
古代ギリシャ・ローマの美術に
着想を得て発展した芸術運動です。
この時代の絵画は、
古典的な
理想美や秩序・規範に従って、
堂々とした様式を特徴としています。
具体的には、
シンプルで幾何学的な構図、
明るく均一な照明、
理性的で調和の取れた形態、
などが挙げられます。
また、
古代神話や歴史的な場面、
神聖な主題を描き、
そこから美しさや
普遍的な美意識を表現しています。
こうして、ナポレオンは
国民投票によって
フランス皇帝となったのです。
皇帝ナポレオン
1804年5月18日、
フランス共和国政府は元老院令を発して
共和国を世襲皇帝に委ねると宣言し、
ナポレオンはフランス皇帝となりました。
ダヴィッドも
ナポレオンの「首席画家」に命じられ
この絵が完成しました。
ナポレオンは自分の力で
フランス皇帝になったことを示すため、
わざわざローマから招いた
教皇ピウスⅥI世に戴冠されるのではなく、
自ら自分の頭に帝冠を置きました。
そして絵画は
ナポレオンが皇妃に戴冠するために
冠をかかげている場面を描き出しています。
ナポレオンは
フランス皇帝となった
その日から、
王座を古代ローマのシンボルで飾りました。
ナポレオンの王冠は、
ローマ人が
勝利者に与えた王冠に似た
月桂樹の冠を
かたどったものになっています。
ただし、材質は金です。
皇帝ナポレオンは
大帝国を飾る重要な要素として
文化を
プロパガンダの手段として利用しました。
アンピール様式(帝政様式)です。
アンピール様式とは
古代ギリシア・ローマの美意識を
再解釈したもので
第2次新古典様式とも
見なされています。
それは絵画だけでなく
建築や家具・室内装飾
演劇、オペラ、文学まで
どれも、英雄崇拝・愛国主義
自己犠牲・個人より社会の尊重を
意味することを示していました。
こうして
古代を復活させることによって、
彼は自身の帝位に
真に正当性と永遠性と与えるべく、
軍隊の勝利の栄光に匹敵する
帝国の文化を国民に求めたのです。
しかし
フランス皇帝は、
神聖ローマ皇帝や
ロシア皇帝と異なり、
もはや
古代ローマ帝国との
理念・歴史的関連性を
持たない皇帝だったのです。
皇帝たるもの
長きにわたってヨーロッパにおける
皇帝の称号は
「ローマ皇帝の後継者」
としての称号でした。
帝政ローマの最高支配者となった
ガイウス・ユリウス・カエサルが、
最初の「ローマ皇帝」となった
ユリウス=クラウディウス朝 (紀元前27年 – 68年)
から、
●四皇帝の年 (68年 – 69年)
●フラウィウス朝 (69年 – 96年)
●五賢帝時代 (96年 – 180年)
●セウェルス朝 (193年 – 235年)
●軍人皇帝時代 (235年 – 284年)
●ディオクレティアヌスと
四帝統治 (284年 – 305年)
●コンスタンティヌス朝 (306年 – 363年)
そして、
395年
ローマ皇帝テオドシウス1世の死後、
帝国は彼の2人の息子に分けられました。
息子アルカディウスが統治。
首都はコンスタンティノープル
(現在のイスタンブール)
息子ホノリウスが統治。
首都はラヴェンナ(後に移動)
分裂は一時的なものと思われていましたが、
次第に両者は異なる道を歩み始めました。
西ローマ帝国⇒神聖ローマ帝国
西ローマ帝国は
5世紀に入ると
急速に崩壊へと向かいます。
ゲルマン部族の侵入が激化し、
帝国領土は次第に縮小しました。
特に、ヴァンダル族、フランク族、
ゴート族がローマ領に侵入し、
476年、最終的に西ローマ帝国は
オドアケルによって
滅亡に至ります。
時がたち
800年
広大な領土を支配していた。
現在の
フランス、ドイツ、イタリア、
ベネルクス諸国にわたる
ヨーロッパの大部分を統一していた。
シャルルマーニュ(カール大帝)が
「ローマ皇帝」に戴冠され、
西ヨーロッパでローマ皇帝の伝統が
復活。
962年
オットー1世が
「神聖ローマ皇帝」として戴冠し、
神聖ローマ帝国が成立。
神聖ローマ帝国の皇帝継承は、
ローマ帝国時代の世襲とは異なり、
選挙制が導入されました。
次第に特定の家系
(特にハプスブルク家)に
よって継承されるようになりました。
選挙制にもかかわらず、
世襲的要素が強まっていったのです。
しかし、
神聖ローマ帝国は
次第にその統一性を失い、
複雑な封建制と地方分権が
進行していたのです。
東ローマ帝国⇒ロシア帝国
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は
内部の分裂や外部からの圧力
(特にイスラム勢力のオスマン帝国)
によって徐々に衰退し、
1453年に
オスマン帝国によって
コンスタンティノープルが陥落し、
帝国は正式に滅亡しました。
ビザンツ帝国の滅亡後、
モスクワ大公国が
次第にロシア全土を統一し、
強大な勢力を持つようになりました。
この時、
モスクワは
「第三のローマ」として
ビザンツ帝国の後継者を
自称するようになります。
モスクワ大公国は、
16世紀になるとさらに
中央集権化が進み、
1547年
イヴァン4世(雷帝)が
「ツァーリ(皇帝)」を正式に称し、
ロシア皇帝を自任しました。
ツァーリの称号は、
ビザンツ帝国の
「カエサル(シーザー)」に由来し、
ロシアがビザンツの遺産を継承する
意識が強く反映されていました。
こうしてモスクワ大公国は、
ロシア帝国として
正式に成立します。
ロシア帝国は、
17世紀から18世紀にかけて
大規模な領土拡大を行い、
ピョートル大帝(在位:1682年 – 1725年)
の時代には
強力な中央集権国家としての
地位を確立しました。
ピョートル大帝は
ロシア帝国の近代化を推進し、
ロシアをヨーロッパ列強の一角に
押し上げましたが、
正教会との結びつきも
強く維持されました。
こうして
「ローマ皇帝の後継者」は
神聖ローマ皇帝と
ロシア皇帝になっていたのです。
神聖ローマ皇帝フランツ2世は
ナポレオンが
フランス皇帝になったことを知り
ハプスブルク家世襲領と
皇帝の称号を守るべく、
神聖ローマ皇帝とは
別のオーストリア皇帝を称し、
初代オーストリア皇帝フランツ1世
を名乗りました。
皇帝とは
王の中の王(諸王の王)、
君主国の君主の称号
西では
広大な領土を支配していた
シャルルマーニュ(カール大帝)が
「ローマ皇帝」に戴冠し、
神聖ローマ皇帝となり、
東では
ロシア全土を統一し、
強大な勢力を持った
イヴァン4世(雷帝)が
「ツァーリ(皇帝)」を正式に称し、
ロシア皇帝となった。
そう、
広大な領土を征服して
皇帝を継承したのです。
ナポレオンはカエサルの再来
分裂した東西をまとめて
もっと巨大な帝国にすることなのです。
ここから、
ナポレオンの戦争がはじまります。
ナポレオンの征服戦争
1805年: アウステルリッツの戦い
ナポレオンはイギリス上陸を計画し、
ドーバー海峡に面した
ブローニュに18万の兵力を集結させる。
これに対して
イギリスは、
オーストリア・ハプスブルク、
ロシアなどを
引き込んで第三次対仏大同盟を結成。
第三次対仏大同盟と戦い、
アウステルリッツの戦いで
決定的な勝利を収めました。
この勝利により、
フランスの覇権は
ヨーロッパ中に広まりました。
中小帝国領邦は
ナポレオンを
「守護者」とすることを決め、
1806年7月に
バイエルン、
ヴュルテンベルクを初めとする
帝国16領邦が
マインツ大司教ダールベルクを
首座大司教侯とする
ライン同盟を結成して
帝国脱退を宣言。
ここに至り、
フランツ2世は
8月6日に
神聖ローマ皇帝の退位と
帝国の解散を宣言します。
1806-1807年: プロイセン・ロシア戦争
1806年から1807年にかけて、
ナポレオンは
プロイセンとロシアを相手に戦い、
イエナ=アウエルシュタットの戦いや
フリートラントの戦いで勝利しました。
ティルジットの和約により、
ヨーロッパ大陸における
フランスの支配が確立されました。
1808-1814年: スペイン戦争
1808年、
ナポレオンは
スペインとポルトガルに介入し、
自身の兄ジョゼフを
スペイン王に据えました。
しかし、
これに反発した民衆は、
5月2日にマドリードで蜂起。
やがて反乱は
スペイン全土に拡大します。
スペインの反乱やゲリラ戦が続き、
フランス軍は大きな損害を受けました。
イギリスもスペインを支援し、
スペイン独立戦争は泥沼の戦争となり、
ナポレオンの足かせとなりました。
この絵に描かれているのは、
ナポレオン軍と反乱軍の衝突の夜、
裁判もなしに行われた処刑の光景です。
1809年: オーストリア戦役
ナポレオンが
スペインで苦戦しているのを
目にしたオーストリアは、
イギリスと第五次対仏大同盟を結び、
フランスの同盟国バイエルンへの侵攻を
開始しました。
これに対してナポレオンは迅速に対応し、
エックミュールの戦い(4月22日)、
アスペルン・エスリンクの戦い
(5月20日-21日)
ヴァグラムの戦い(7月5日-6日)
でオーストリア軍に勝利。
オーストリアは
フランスと
シェーンブルンの和約を結びます。
ナポレオンは
ロシア皇帝アレクサンドル1世の
誠実さを試すため、
さらには
ボナパルト家とロシア皇帝との
血縁・縁組を渇望し、
妹のロシア皇女アンナ・パーヴロヴナ大公女
との結婚を申し込みました。
しかし、
アレクサンドルは
アンナが当時15歳で年端もいかないことと、
皇太后マリア・フョードロヴナの反対を
口実にこの申し入れを拒絶したのです。
1810年、
ナポレオンは
オーストリア宰相メッテルニヒによって
オーストリア皇女マリア・ルィーザと再婚。
皇后ジョゼフィーヌは
後嗣を産めないと言う理由で離婚しました。
1811年3月20日に
王子ナポレオン2世が誕生し、
ローマ王となりました。
そして、
教皇領はフランスに併合され、
ローマ教皇ピウス7世は幽閉されました。
このころの
フランス帝国は
オランダ、ハンブルク、
ローマなどを併合し大帝国となり、
支配下のイタリア王国、
兄ジョゼフが王位にあるスペイン、
弟ジェロームが王位にある
ヴェストファーレン王国、
義弟のミュラが王位にあるナポリ王国、
従属的な同盟国のスイス、
ライン同盟、ワルシャワ公国など
ナポレオンの絶頂期を迎えてました。
新古典主義~ロマン主義へ
フランスの新古典主義絵画における
ダヴィッドの
存在はあまりに大きかった。
鮮明な線と
人物群像をフリーズさせ
画面に水平に配して、
大理石の浅浮き彫りのような描写に
義務への献身、愛国心、
英雄的自己犠牲など美徳をもった
古代ギリシア・ローマの精神を主題とした
彼独自の新古典主義スタイルは
すでに
フランス革命直前で
頂点に達していた。
そして
フランス革命と
ナポレオンの時代を通じて、
ダヴィッドは芸術の面でも
画壇の政治的勢力の面でも、
他の追随を許さない第一人者であった。
なので
新古典主義絵画=ダヴィッド
というイメージが強いが、
実は
ダヴィッド以外のスタイルで
新古典主義絵画を描いている
画家もいるんです。
とくに、
ダヴィッドとは真逆なスタイルなのに
ナポレオンの女性側から依頼を受け
肖像画や家具の制作などを行った
ピエール=ポール・プリュードン
彼は
ロココ絵画とロマン主義を結ぶ画家
として伝えられています。
ピエール=ポール・プリュードン
プリュードンはイタリアで、
レオナルド・ダ・ヴィンチや
コレッジオの絵画から
輪郭線をぼかした優美な描法を学びました。
「皇后ジョセフィーヌ」では
キアロスクーロ(明暗法・陰影法)
という技法を使い
光の効果を使った立体感的表現で
ジョゼフィーヌが浮かび上がって見えます。
それがとても幻想的です。
元々、キアロスクーロの語は
キアロスクーロ素描からきていて、
素描(デッサン)の明暗を意味していました。
ちなみに
プリュードンのデッサン(素描)は素晴らしく
明暗の表現がはっきりしています。
後にロマン主義を代表する画家
ドラクロワは
プリュードンの
「皇后ジョセフィーヌ」を高く評価していました。
「ローマ王」も
キアロスクーロ(明暗法・陰影法)
という技法を使っています。
熟睡しているローマ王が
神の祝福を受けています。
神々しい絵ですね。
そしてプリュードンの代表作
「プシュケの略奪」では、
美しい娘プシュケが、
彼女に恋した愛の神クピト
のもとに運び去られる場面を描いています。
たしかに題材はギリシャ神話ですが
新古典主義絵画ではなく
ルネッサンスまたは
ロマン主義絵画的表現です。
このように
プリュードンのスタイルは
ドラクロワなどロマン主義の画家たちを
生み出すもととなったのです。
感情や個性を重視し、
自然や人間の内面に迫る表現を
特徴としています。
具体的には、
情熱的な筆使いや色彩、
自由で奔放な構図、
幻想的な主題などが挙げられます。
また、古典主義の規範に反発し、
自然や民衆文化を題材にしたり、
歴史的・神話的な場面を描き、
それに
自己表現を加えた
作品が多く見られます。
さらに、
個人の感性や想像力を重視し、
精神的な豊かさや理想を
表現する作品が多くあります。
ナポレオンの戦争と
皇妃ジョゼフィーヌによって
絵画は、
よりロマンティシズムに
変化していきました。
とくに
ダヴィッドの弟子のなかで、
ジェラール、ジロデ、グロの3人は
ナポレオンの依頼によって
皮肉にも新古典主義から
ロマン主義の間をつなぐ役割を
果たしてしまいました。
彼らはGのイニシャルなので
「3人のG」と呼ばれていました。
ジロデ
アンヌ=ルイ・ジロデ・ド・ルーシー =トリオゾンは、
ダヴィッドの最も優秀な弟子の一人でしたが、
自分のスタイルを模索し、
ロマン主義的傾向を強めて行きました。
ナポレオン率いるフランス軍は、
エジプトのカイロと
アレクサンドリアを占領しました。
エジプト人は当然反感を示し、
反乱がカイロで勃発しました。
この絵は
その反乱を描いています。
そこには
情熱的な筆使いや色彩、
自由で奔放な構図など
既にロマン主義絵画的表現になっています。
ジェラール
フランソフ=パスカル・ジェラールは
ナポレオンの肖像画家として、
ナポレオンをはじめ、
多くの上流階級の人々の肖像画を制作しました。
ナポレオンの母、
マリア・レティツィア・ボナパルト
も描いています。
肖像画を描いていた
ジェラールでしたが
絵画的地位を上げるには
歴史画が描けないと
認められないので
ナポレオンに依頼させてもらい
「アウステルリッツの戦い」を制作。
絵の構図や叙事的な表現は
この後紹介するグロと
まったく同じく
いかにナポレオンが
絵の指図までしていた事が解ります。
グロ
アントワーヌ=ジャン・グロ男爵は、
ナポレオンに気に入られ、
美術品の評価監査員に任命されました。
当時、
ナポレオン軍は
侵攻しながら様々な美術品を略奪し、
目ぼしいものは本国へと持ち帰っていました。
評価監査員とは、
捨てる美術品と
持ち帰る美術品の選別をするものです。
グロは、ナポレオン軍に同行し
フランスの勝利を描いた
叙事的な作品で名をはせ、
その名声は
師ダヴィッドと
肩を並べるまでになったそうです。
グロは
あくまでも
ダヴィッドの教えを信じて大切にしていたので
自分では新古典主義を描いていたのでしょう。
ところが晩年には、
やや情緒的な自分のスタイルが
ロマン主義運動の若い画家に
影響を与えたことを
悔やんでいました。
ナポレオンの為に描いた『オシアン』
『オシアン』とは
1765年スコットランドの詩人
マクファーソンが
古代ケルトの叙事詩人オシアンの詩
の翻訳と称して出版したもので、
ナポレオンが愛好していました。
ダヴィッドの弟子
ジロデ、ジェラール、アングルは
ナポレオンのために
この詩をテーマにした絵を制作しました。
そこには、すでに
新古典主義絵画ではなくなっています。
元々、ジロデが描いたこの作品は
サロン出品の際の副題には、
「ナポレオン・ボナパルトに捧げるオマージュ」
でした。
若き日のナポレオンの軍隊で戦死した
オシュ、マルソー、
ドゼー、クレベールなどの
将軍たちの亡霊が、
天国でケルトの吟遊詩人オシアンに
迎えられている場面を描いています。
こうして
グロやジロデの人気が高まるとともに、
ロマン主義運動も台頭し始め、
それとともに
ダヴィッドのスタイルはいかにも
時代遅れと思われるようになり、
彼の芸術も衰退に向かっていったのです。
この肖像画を依頼したのは、
皮肉にもフランスの大敵である
イギリスの貴族です。
その貴族は、
ヨーロッパ各国の統治者を
等身大で描くシリーズを望んでいました。
なので、
ダヴィッドが描いた
このナポレオン最後の肖像画は
ナポレオンが肖像画のために
ポーズをとったという可能性は
低いといわれています。
帝国の崩壊
ロシアと血縁関係が出来なかった
ナポレオンは
自ら皇帝を正当化するために、
ロシア帝国をつぶしに行きます。
しかし、
それがフランス帝国の崩壊へと
向っていたのです。
1812年: ロシア遠征
ナポレオンはロシアに遠征しましたが、
厳しい冬とロシア軍の焦土作戦により大敗しました。
莫大な兵力を失い、
フランスの支配力は大きく揺らぎました。
1813年: ライプツィヒの戦い
ナポレオンは
ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で
第六次対仏大同盟
プロイセン、ロシア、
オーストリア、スウェーデンなど
と戦いましたが、敗北を喫しました。
この敗北により、
フランスの勢力は後退し始めました。
1814年: 退位とエルバ島への追放
連合軍はフランスに侵攻し、
パリを占領しました。
ナポレオンは退位を余儀なくされ、
エルバ島に追放されました。
このように、
フランス皇帝となったナポレオンは、
ヨーロッパ中で
数々の戦争と政治的な活動を行い、
フランス帝国の拡大と維持を試みましたが、
最終的には
大きな失敗と崩壊を経験したのです。