フランス革命を描いた絵画
第2回
今回は、大きな建物が主役です。
この建物は、
かつてパリの東側を守る要塞として
1370年に建てられたものです。
建物の名はバスティーユ(Bastille)
フランス語で「要塞」を意味します。
この「要塞」が、
1659年以降、
洲の刑務所として使われ
バスティーユ牢獄となり
絶対王政支配の象徴とされていました。
あのサディズムという言葉の由来でもある
貴族の小説家、
マルキ・ド・サドも収容されていたそうです。
1789年7月14日
この
バスティーユ牢獄が襲撃され
フランス革命の発端となりました。
なぜ、刑務所が襲撃されたのでしょう?
そして、
なぜ、この絵は
重々しい沈黙なのでしょう?
まずは
バスティーユ牢獄襲撃に至るまでを
見てみましょう。
バスティーユ牢獄襲撃に至るまで…
前回の
フランス国王ルイ16世は
王党派の反対を押し切って
国民議会を承認することを決断し、
聖職者、貴族の全てに
国民議会への合流を認めました。
これに対し王党派は、
王妃マリー・アントワネット
らを中心に
武力行使も辞さない姿勢見せたのです。
1789年7月11日
スイス人連隊、ドイツ人騎兵連隊、
フランス衛兵隊からなる
2万の兵をパリに集結させ、
その武力を背景に、
民衆の期待を集めていた
財務総監ジャック・ネッケルを
罷免(職をやめさせる)しました。
「ネッケル罷免」の報は
翌12日にパリに届き、
国民議会を支持する
パリの民衆が立ち上がりました。
7月14日
民衆はアンヴァリッド(廃兵院)で武器を奪い、
さらに弾薬を調達するために
バスティーユ牢獄へと向かいました。
バスティーユ牢獄で、
民衆の代表が
弾薬と火薬の受け渡しを
交渉しましたが、
要塞司令官
ルネ・ド・ローネーが拒否。
交渉が長びく中、
要塞の外では民衆の数が増加。
午後1時半ごろ
民衆が中庭になだれ込み、
守備隊(退役兵とスイス兵)が発砲し、
民衆との戦闘が始まったのです。
戦闘は夕方ごろには
ルネ・ド・ローネーが降伏し、
牢に入れられていた囚人が解放され、
バスティーユ牢獄は陥落しました。
要塞司令官ルネ・ド・ローネーは
捕えられ、
殺害して
その首を刎ねました。
また
パリ市長の
ジャック・ド・フレッセルも
市民の裏切り者として射殺され
首を刎ねて槍先に刺して
市庁舎前の広場で
民衆に高く掲げられました。
fa-check-square-oこの後、
「テニス・コートの誓い」で
宣言文を読み上げた
バイイがパリ市長になります。
バスティーユ襲撃の報告を受けた
国王ルイ16世は、
暴動かね?
と尋ねると
側近は
いいえ陛下、
これは暴動ではありません
革命でございます
と答えました。
そう、
バスティーユ襲撃は
まさに
フランス革命の始まりなのです。
バスティーユ襲撃の絵画
この
フランス革命の始まりであって、
「自由の目覚め」でもある
歴史的な事件の
「バスティーユ牢獄襲撃」は
当然、多くのアーティストが描いています。
どれも、
まさに「革命」
そのものを描いています。
しかし、
今回、紹介する絵だけ
どこか違っているのです。
そう、
この作品は、
バスティーユ牢獄襲撃を
描いているわけではありません。
バスティーユ牢獄襲撃の翌日、
バスティーユ牢獄の
解体作業をえがいているんです。
なぜ、歴史的な日でなく
あえて翌日を描いたのでしょうか?
この絵を描いたのは
ユベール・口ベール
後に
ルーヴル美術館の改造計画へ参加した人物です。
ユベール・口ベールについて
ユベール・口ベールは、
1733年にパリで生まれました。
父親のニコラ・ロベールは
外交官のスタンヴィル伯爵の従者でした。
1751年
彫刻家ミシェランジュ・スロッツのもとで
デッサンと透視図法を教わり、
スロッツから画家になることを勧められました。
1754年
父親の雇い主の息子が
ローマ大使となり、
その息子に随行してローマへ向かいます。
このイタリア滞在時に
ユベール・口ベールは
当時、古代ギリシャ遺跡が発掘され
古代ブームだったポンペイに訪れ
古代の遺跡と18世紀の人々の生活との
対比に強い興味を抱き
カプリッチョを提唱したことで知られる
イタリアの画家、
ジョバンニ・パオロ・パンニーニ
の工房で修行しました。
カプリッチョとは、
実在の建物、古代遺跡、
それに架空の遺跡を
まぜこぜにした
風景画のことをいいます。
こうして
ユベール・口ベールは
記念的建築物や古代的風景作品を手がけ
自身の画風を確立しました。
1765年にパリへ戻ると
王立絵画・彫刻アカデミーの
建築画家として正会員に迎えられました。
さらに
1777年には
室庭園設計師に、
1784年からは
王立美術館ルイ16世絵画コレクションの
管理者に任命されたのです。
「バスティーユ牢獄の破壊」について
この作品は、
ユベール・口ベールが
王立美術館ルイ16世絵画コレクションの
管理者に任命された
5年後の
1789年に描いた作品です。
絶対王政の時代では
ロマンティックな〈廃墟の画家〉として
描いていた彼が
現代の風景を描いています。
そう
彼のパトロンであった王族が
今、滅ぼされる瞬間を
そして
新しい共和国へと向かう瞬間を
バスティーユ牢獄は
古代ギリシア建築同様
過去の建物、
その時代の象徴であるのです。
古代ギリシア建築は残りましたが
この要塞は壊されるのです。
忌々しい過去と共に
ユベール・口ベールは
この絵に
自分がフランスで築いた
地位や名誉も無くなる
虚しさも込めて
描いたのかもしれません。
王族ベッタリだった
ユベール・口ベールは
「恐怖政治」を宣言した
ロベスピエールによって
投獄されます。
そして
死刑判決を受けてしまいました。
ユベール・口ベールのその後
ところが
他の囚人が
ユベール・口ベールと
間違われて処刑されました。
さらに
ロベスピエールは捕えられ
1795年に
ユベール・口ベールは
釈放されました。
その後
彼は
ルーヴル美術館の改造計画へ参加し
美術館の装飾や
ルーヴルを描いた作品など
精力的に活動し、
74歳(1808年)まで生きたそうです。
フランス革命