マティアス・グリューネヴァルト

マティアス・グリューネヴァルト
(1470-74~1528年)

本名ではありません。

本名は
マティス・ゴットハルト
またはニートハルトです。

マティアス・グリューネヴァルトでは
ないんですね~。

しかし、
美術史や美術館の展示では
マティアス・グリューネヴァルト
なっているので
ここでも、その名で紹介します。

彼の名前を誤って伝えたのは、
ドイツの画家兼旅行家、
ヨアヒム・フォン・ザンドラルト
1675年に著した
グリューネヴァルトの伝記でした。
彼は20世紀に入るまで、
永く忘れられた存在だったのです。

ドイツ・ルネサンスの巨匠
デューラーと同世代であるが、
その作風は、
残酷なリアリズム
幻想的な表現
独特な色彩など
彼独自の特徴をいかした
表現主義的な作品となっています。

彼の幼少期については、
アウグスブルクの
ホルバイン(父)の工房で
修業をしたのではないかと
推測される以外には、
なにもわかっていません。

1508-14年ころ
マインツの大司教
ウリエル・フォン・ゲミングンの
宮廷画家となります。

彼は熟練した水力工学の技師であり、
ときには
噴水の建造についての助言の
ために呼ばれたこともあります。
さらに
宮廷の主任美術担当官として、
新しい建築工事を
監督することも望まれていました。

1512-15年ころ
アントニウス会修道院のための
≪イーゼンハイム祭壇画≫制作

1516年
ウリエルの後継者
アルブレヒト・フォン・プランデンブルク枢機卿
仕えます。

グリューネヴァルトは、
前任者とほぼ同じ待遇で
絵画に加えて
あらゆる建築計画を監督するよう
命じられました。

1520年10月
カール5世の戴冠式に列席するため、
枢機卿に随行してアーヘンに赴いた。
そこで、
あのデューラーと出会います。

2人は以前に同じ計画
≪ヘラー祭壇画≫
かかわっていましたが、
それぞれまったく別の
持ち場で働いていたのです。

ヘラー祭壇画

デューラーは、
2フロリンの価値のある
自分の本版画と鋼版画を
数点グリューネヴァルト
贈ったと日記に記しています。

1520-23年
彼は
アルブレヒトの
新しい参事会聖堂の建築に従事し、
≪聖エラスムスと聖マウリティウスの出会い≫

を描きました。

この頃、
ドイツでは農民戦争が発生。
グリューネヴァルト
きわめて説得力のある
2人の宗教家
ドイツの宗教改革者、
マルティン・ルター
スウェーデンの
聖女ビルイッタ
から強い影響を受けます。

1526年
農民戦争は鎮圧され、
共鳴者として知られていた
グリューネヴァルトも、
宮廷画家を解雇されました

グリューネヴァルト
フランクフルトヘ逃れました。
そこで彼は、
絵の具や鎮痛剤を
売り歩いて生計を立てました。

1527年
ハレに戻ったグリューネヴァルト
同じルター派の見解をもつ
同情的な市長に、
水力技師として雇ってもらえました。

所持品は、
ほとんどないまま
晩年をここで過ごし、
1528年
ペストにかかり、
それがもとで亡くなりました。

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グリューネヴァルト鑑賞作品一覧

 

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