フランス革命を描いた絵画
第4回
今回は、殺人現場の絵です。
男が上半身裸になっています。
そして下半身は何かに
入っている様子です。
右手に羽ペン
左手に筆跡のある紙をもっています。
何か書いていたみたいです。
そして右鎖骨の下に切り傷の痕
血が出ています
床に、そのナイフが落ちています。
彼は両手がふさがっています。
つまり誰かに
ナイフで刺されたのです
この絵のタイトルは
「マラーの死」
そう、殺された彼が
マラーなのです。
一体、マラーとは
どういう人だったのでしょう?
そこから見てみましょう。
マラーとは?
正式な名は
ジャン=ポール・マラー
1789年にフランス革命が勃発すると
彼は、新聞『人民の友』を発行し
立憲王政派をきびしく批判、
下層民(サン・キュロット)から
支持されていました。
君主制における国王の権力が
憲法によって規制されている政体のことです。
1792年9月20日に
国民公会が招集され
国民公会は王政廃止を決定し、
第一共和政が開始されました。
マラーも国民公会の議員に選出されて
山岳派に所属します。
国家元首の地位を
個人(国王)に持たせない
政治体制のことで、
国家の所有や統治上の最高決定権を
個人(国王)ではなく
人民または人民の大部分が持つことなのです。
そして
国王ルイ16世や
マリー・アントワネット
らは
ギロチン
によって処刑されたのです。
国民公会には、
派閥があり
山岳派が200人、ジロンド派が160人
その他(平原派や沼沢派)が400人いました。
山岳派は国民公会の議場の最も高い席を占めたので
その名がつきました。
そして
山岳派の指導者には
ダントン、マラー、ロベスピエール
の3巨頭がいたのです。
そう
マラーは
3巨頭の一人に
なっていたんですね。
国民公会が始まると
早速、派閥争いになり
山岳派とジロンド派は
対立することになりました。
1793年
山岳派3巨頭の一人
ダントンは、
フランス革命の収束をはかって
派閥争いを止めようと
ジロンド派に説得しましたが
失敗して大臣を辞任。
マラーは、
支持されている
下層民(サン・キュロット)に
ジロンド派打倒の民衆運動を誘発し
6月2日に
ジロンド派は国民公会を追放され
山岳派独裁政権が成立しました。
そして、7月13日
事件が起きたのです。
この日
マラーは
持病の皮膚病が悪化し
治療のため
オートミールを浸した浴槽に
長時間入浴する生活を送っていました。
そこに、
シャルロット=コルデーという
25歳の女性が
伝えねばならない
重要な情報があるの
と訴え、
訪問してきたのです。
シャルロットとマラーは
10分程度
話をしていましたが
突然、
シャルロットがマラーを
ナイフで突き刺して
殺してしまったのです。
マラー暗殺事件の謎
この事件は謎だらけです。
つじつまが合わないことだらけです。
そもそも
何で25歳の若い女性が、
50歳の皮膚病で
ほとんど外出もできない男を
何故、殺す
必要があったのでしょうか?
いったい
25歳の若い女性
シャルロット=コルデー
とは、何者なのでしょう。
まずは、そこから見てみましょう
シャルロット=コルデー
本名
マリー=アンヌ・シャルロット・コルデー・ダルモン
1768年7月27日
ノルマンディー地方の
貧乏貴族の娘として生まれました。
三大古典詩人の一人、
ピエール・コルネイユの子孫なんです。
13歳のときに母と死別し
フランス北西部の
都市カーンの
修道院に入ります。
彼女は読書が好きで
物静かな人だったらしく
ルソーやヴォルテールなどの
哲学書を読んでいたそうで、
特に
プルタルコスの『対比列伝』
を愛読していたそうです。
古代ギリシア・ローマの
著名な人物の伝記で、
主に、
言動の似た二人の人物を
一人ずつ選び、
対比させてゆく伝記もの。
対比させない
単独の伝記もすこしある。
シャルロットは
『対比列伝』に自分を
重ね合わしていたのかもしれません。
なんせ彼女は
三大古典詩人の一人の子孫で
貴族の生まれ
美人でスタイルもよかったそうです。
ですから、
不遇な環境で育っている現状に
自分は他の人と違って特別なのよ
と自負することで生きていた
と思います。
現に彼女は
人を見下す癖がありました。
フランス革命がおきると
革命政府により修道院が閉鎖され、
叔母のブルトヴィユ夫人の
もとに身を寄せました。
ある日
パリで派閥争いに敗れた
ジロンド派議員が
カーンへ逃亡してきました。
シャルロットは
ジロンド派議員の
シャルル・バルバルーと出会い
人生が変わったのです。
シャルロットの運命を変えた
シャルル・バルバルー
彼はどんな人物だったのでしょう。
次は
シャルル・バルバルーについて
見てみましょう。
シャルル・バルバルー
本名
シャルル・ジャン・マリー・バルバルー
1767年3月6日
マルセイユに豪商の息子として生まれる。
なるほど
シャルロットより1つ年上ですね。
父親がグアドループ島で亡くなった後、
地方のオラトリオ修道会によって教育を受け、
法学を学んだ。
ここら辺は
シャルロットと同じ境遇ですね。
しかし
バルバルーは
物理学者として活動していた
マラーを追って
パリへ行きました。
そう、
バルバルーは
マラーの弟子だったんですね。
1790年
マルセイユ市の書記官に任命されます。
そして
フランス革命が勃発すると
バルバルーは
ジロンド派の考えに共感し、
彼らと行動を共にするようになります。
国民公会が招集されると、
ジロンド派として
独裁をもくろんでいるとして
ロベスピエールを非難したり、
師であるマラーの裁判で
彼を積極的に攻撃していました。
しかし
ジロンド派は山岳派に敗れ
6月2日にジロンド派は
国民公会から追放されます。
シャルロットとバルバルーの関係は?
シャルロットは、
若く容姿の美しいバルバルーに
魅かれたと言われていますが
2人の関係が恋に落ちたかどうかは
わかりません。
何故なら、あまりにも
日数が無いからです。
6月2日に
パリで派閥争いに敗れた
ジロンド派議員。
その後、逃亡して
パリから直線距離で
約200キロメートルから
250キロメートル程度はなれた
都カーンへたどり着き
そこで
シャルロットは
ジロンド派議員の
シャルル・バルバルーと出会い
シャルロットは
7月9日に
叔母の家からパリへ単身上京します。
その間、約一か月以内
しかも
ジロンド派議員が
いつカーンに辿りついたか
解らないのです。
さらに
シャルロットは
人を見下す癖があったし
修道院にいたので
急速な恋の発展はどうだか、
シャルロットが、
バルバルーに魅かれたこと
事態も怪しいものです。
ただ
バルバルーが、
彼女のために
パリの友人の議員デュ・ペレに
紹介状を書いていたことは事実で、
これが
シャルロットを
パリへ向かわせたことになっています。
7月13日の出来事
シャルロットが
パリに到着したのが
7月11日
そのわずか二日後に
事件がおきます。
7月13日
この日、
シャルロットは
おしゃれな帽子を買い
そして、
マラーの住まいへ向かいました。
マラーは
持病の皮膚病が悪化し
治療のため
オートミールを浸した浴槽に
長時間入浴する生活を送っていました。
そこに、
シャルロット=コルデーが
伝えねばならない
重要な情報があるの
と訴え、
訪問してきたのです。
この時、
マラーの内縁の妻
シモーヌ・エヴラールは、
シャルロットを家に
いれようとしませんでした。
午後5時頃、
再び訪問したシャルロットは
ジロンド派の反乱に
関する情報を持っている
と訴え、
カーンに滞在していた
ジロンド派の詳細を記した
メモを理由に
部屋に入ることができました。
シャルロットとマラーは
10分程度
カーンでの出来事について
話をしていましたが
突然、
シャルロットがマラーを
ナイフで突き刺したのです。
ナイフは、
マラーの鎖骨から入り、
助骨まで達していました。
血が大量に噴き出し
マラーは
助けてくれ、
親愛なる友よ!
と叫びました。
叫び声を聞いた
マラーの内縁の妻がかけつけ、
医者も呼ばれましたが、
出欠多量で亡くなりました。
内縁の妻シモーヌ・エヴラールは
悲しみに泣き崩れました。
シャルロットは逃げずに
慰めようのない
シモーヌを見て
わずかに心を
動かされました。
しかし、
その場に居合わせた
支持者らに取り押さえられて、
現行犯逮捕されました。
逮捕されたシャルロットの
近辺捜査から、、
バルバルーの紹介状や
ジロンド派議員の名が
書かれた文章が発見されると、
マラー暗殺は
ジロンド派の陰謀であるという
説が打ち立てられました。
その後、2人は?
マラー暗殺事件の
4日後、7月17日の朝8時
革命裁判所にて
裁判が開始されました。
法廷は人だかりでいっぱいでした。
シャルロットは
こう言います
10万人の
人々を救うため、
1人を殺した
と
しかし
陪審員による評決で
死刑と決まりました。
公判終了後に
シャルロットは
バルバルーに向けて手紙を書き
自分の肖像画を描かせました。
そして、午後
死刑執行人サンソンが
シャルロットの手を縛ろうとすると、
シャルロットは
マラーを殺した後も
縛られましたが、
とても
乱暴な縛り方で
手に傷がつきました。
そうならないように、
手袋をしても
よろしいでしょうか
とたずねました。
サンソンは
大丈夫、
私は
まったく痛くないように
縛ることが出来ますから
と答えると
シャルロットは
微笑みおとなしく縄目を
受けました。
サンソンは彼女について、
こう言ってます。
シャルロットについて
彼女を
見つめれば見つめるほど
いっそう強く惹きつけられた。
それは、
たしかに彼女は美しかったが、
その美しさのせいではなく、
最後の最後まで
なぜあのように愛らしく
毅然としていられるのか
信じられなかったからで
あった。
シャルロットは
革命広場へ進み、
ギロチンによって
処刑されました。
シャルロットは後に
「暗殺の天使」と呼ばれました。
一方
カーンに滞在中の
バルバルーは
追手から逃れるため
南西部の町
サン=テミリオン
まで落ち延びましたが、
1794年6月17日
「ロベスピエールの目」
と呼ばれた公安委員会の密使、
マルク・アントワーヌ・ジュリアン
に追いつめられ
拳銃で自殺を図りますが、
死にきれず
瀕死の状態のまま逮捕され、
パリの革命広場まで連行されて
6月25日に
ギロチンによって
処刑されました。
この事件の疑問
いままで、
マラー暗殺事件の
経緯とその後を見てきました。
やはり辻褄が合いませんね。
疑問だらけです。
疑問1
バルバルーは
シャルロットがマラーを殺すとは
思っていなかったとおもいます。
彼女の手紙を読んで慌てたのか
追手で気が付いたのかのどちらかです。
カーンに逃亡してきたジロンド派議員たちは
他の都市と連絡を取りつつ、
ジロンド派の反乱を企てていたので
バルバルーは、シャルロットを
パリへつなぐ連絡係として
紹介状を書いたかもしれません。
(完全に2人が恋仲だとは思っていません)
疑問2
シャルロットは、
どこでマラーを知ったのでしょう。
テレビもラジオもインターネットのない時代
パリでの出来事が、
ド田舎のカーンに
リアルタイムで細かく
伝わるわけありません。
逃亡してきたジロンド派議員も
山岳派の話とかはしていても
シャルロットに
マラー個人の話はしていないと思うし
もしマラーの話が出るなら
ロベスピエールの話も出るはず
動けないマラーを殺すより
独裁政権を目論んでいる
ロベスピエールを殺した方が
まだましです。
まして、先ほども話しましたが
バルバルーとシャルロットの
2人の時間はほとんどないと思えるのです。
疑問3
最大な疑問
それは
議員デュ・ペレ宛の紹介状です。
この事件によって
議員デュ・ペレがどうなったのか
さっぱりわからない。
ジロンド派議員の名が発見されたことも
怪しい。
バルバルーは
紹介状は書いたけど
ジロンド派議員の名が書かれた文章を
渡したとは書いてありません。
とすれば
パリに到着して何かあったと思うのです。
例えば
議員デュ・ペレは
すでに山岳派の人になっているとか、
もっと厳密に言えば
ロベスピエールと手を組んでいるとか
です。
もしかして
マラー暗殺は
議員デュ・ペレがシャルロットに
何か提案か交渉して決めたこと
かもしれません。
マラーの死について
謎が多く、
見方によっては
スキャンダルな事件
後のアーティスト達が
想像を膨らませて描いています。
他のマラー暗殺事件の絵
やはり
どの作品も
シャルロットが描かれています。
しかも
ムンクの作品では
シャルロットは裸になっています。
しかし、
今回の絵は
まったく違うのです。
「マラーの死」聖なるものへ
さあ、もう一度
絵に戻って見てみましょう。
殺人現場の絵としては
実に不思議な絵です。
静かで、安らかな顔をしています。
まるで浴槽で気持ちよくなって
寝ているように。。
この絵を描いたのは
新古典主義絵画の巨匠
ルイ・ダヴィッド
です。
マラー暗殺事件がおきた3日後、
国民公会の一議員が
この事件を
キャンバスに描き残すよう
依頼してきました。
依頼を受けたダヴィッドは
この絵についてこう語ってます
”人々の幸せのため”
に描く
と、
実はダヴィッドも
山岳派の一員で
マラーのことをよく知っています。
ダヴィッドは
殺人現場をリアルに描くのではなく
革命家マラーの死を
死せるキリストと思わせる
構図に組み立てました。
マラーの皮膚病は
かなり深刻でした。
体は冷たい水風呂につかり
頭には酢を浸したターバンを
巻いていました。
そんな醜い容姿を無視し
肌のシミやシワを取り除き
頭部は優雅にかしぎ、
腕はだらりと垂らしたのです。
この姿は、
あのミケランジェロの
死せるキリストを表した
ピエタ
(哀悼)の
ポーズを応用したものなのです。
また、バロック絵画の巨匠
カラヴァッジョの作品
「キリストの埋葬」を
参考にしているとも言われています。
血のりのついた手紙には
こう書いてあります
1793年7月13日
マリー・アン・シャルロット・
コルデーより
市民マラー様へ
あなたのご親切に
おすがりするためには
私がとても不孝であると
いう事実で十分かと思います。
そう、これは
シャルロットがマラーに
会うために書いた嘆願書です。
当然、この文章は
ダヴィッドが
シャルロットの
ずる賢さをアピールするために
描いた架空の手紙です。
木箱の上にインクとペン
それに手紙と紙幣が置かれています。
この手紙には
祖国防衛のために
死亡した夫、
その5人の子供を
持つ母に与えなさい
と書いてあります。
マラーの右手には
羽ペンをもっていたので
丁度その手紙を書き終えた時に
シャルロットが訪問してきた
ことになっています。
当時マラーは
非道な人と言われていました。
ダヴィッドは
それを払拭させるかのように
慈悲深い聖人のような人物に
描いていたのです。
凶器のナイフも
本来なら胸に突き刺したままなのですが、
床に落ちています。
マラーの傷口も
一応深く刺さったあとはありますが
血は少し流れている程度
これは事件があった証拠として
描かれたもので
それ以上に
安らかに眠るマラーの姿に
「暗殺の天使」である
シャルロットの
存在を打ち消したのです
木箱には
「マラーへ」という文字と
ダヴィッド自身のサインが
書かれています。
このように
革命の殉教者たるマラーを、
キリスト教の殉教者みたいにして
宗教画として神聖なイメージで描きました。
ダヴィッドについて
ダヴィッドは
山岳派の一員だけでなく
一般治安委員会の
委員でもありました。
そこでは
反革命分子の動静を調査する任務や
大勢の人々に刑を宣告し
禁固もしました。
最終的には「尋問部」を
統括していたのです。
つまり、
マラー暗殺の情報を事前に
知っていたかもしれません。
現に
暗殺の前日にマラーの家を訪ね
緑の敷物、新聞、ペンについて
絵を描きこんでいるのです。
また、一部では
ダヴィッドはマラーの友人であった
と書いてありますが、
そうとは思いません。
何故なら
この絵を描くため
マラーの死体を運ばせ、
既に腐っていた死体の腕に
他人の腕をくっつけたり、
口から垂れ下がっていた舌は
切断したりして描いていたのです。
さらにダヴィッドは
革命のために命を落とした
英雄の肖像画は
この「マラーの死」が
最初ではないのです。
1793年1月に
国王処刑に賛成票を
投じたため旧近衛兵に暗殺された
革命派の貴族
ルペルティエ・ド・サン=ファルジョーの
肖像画を、わずか2カ月で完成させました。
この絵は、国民公会で
「マラーの死」のかたわらに
並んで展示されていました。
しかし、
今は現存していません。
依頼した国民公会の一議員とは?
「マラーの死」は広く称賛され、
国民公会の指導者たちは
オリジナル作品の複製を数枚注文し、
1793年から1794年にかけて
ダヴィッドの弟子たちが制作しました。
これにより
ロベスピエールの独裁政権が
完全に成り立ったのです。
と言うことは
ダヴィッドに
この作品を依頼した
国民公会の一議員は
ロベスピエール
だと思います。
彼は、この
「マラーの死」によって
「人民の友」マラーの
カリスマ性をさらに高め
「革命の殉教者」として
神格化し、
ジロンド派の支持を
完全に奪いさりました。
また、このことで
ロベスピエール自身が山岳派の
リーダーシップを
不動のものにしたのです
そして
これにより
「恐怖政治」が
より強化されました。
ロベスピエールは、
ダントンやマラーのように
弁が立つ人ではなかったので
カリスマ性はありませんでした。
それでも彼は
うぬぼれが強く、嫉妬深い性格でした。
なので、ダヴィッドなどを使い
裏で根回ししたり
プロパガンダを使って成り上がり
頂点に立ちたかったのだと思います。
ダヴィッドは
ロベスピエールの
プロパガンダに
自分の芸術を全て注ぎます。
そして
1794年6月8日
革命の理念を「最高存在」として神格化した
「最高存在の祭典」を
ロベスピエールが構想し、
ダヴィドがその演出をしました。
とうとう
「最高存在」となった
ロベスピエール
調子に乗りましたね。
この後
7月27日に
ロベスピエールが率いる
山岳派独裁に対する
クーデターがおこりました。
「テルミドール9日のクーデタ」です。
国民公会の開会中、
「暴君を倒せ!」の叫び声と共に
ロベスピエール逮捕の採決がなされ、
多数で可決されたのです。
その後、
パリ市のコミューンが蜂起し、
そのすきにロベスピエールらは
パリ市庁舎に逃げ込みましたが、
軍隊に占領され
自殺を図るが失敗し
顎に重傷を負い、
逮捕されました。
翌7月28日
ロベスピエールらに
死刑判決が下され
午後6時、
ロベスピエールら22人は
革命広場で
ギロチンにより
処刑されました。
8月には
ダヴィッドが
ロベスピエールを支持した罪で
逮捕されました。
ダヴィットは
国民公会の裁判にかけられたときに
ロベスピエールを非難し、
自分はだまされたと主張したのです。
そして6ヶ月の刑を受けました。
ロベスピエールが処刑されてから
「マラーの死」は
表舞台から消え去り
ダヴィッドの愛弟子
アントワーヌ=ジャン・グロ
の手によって隠されてしまいました。