冉求(前522年〜?)、 魯国の人。
孔子より二十九歳わかい
孔門十哲の一人で、才能豊かで、
政治に参画できる人材であった。
子曰、求也、
千室之邑、百乘之家、
可使爲之宰也、公冶長5-8
孔子曰く
千戸の町や大家老の家で
その長官にならせることはできます。
子曰、求也藝、
於從政乎何有、雍也6-8
孔子曰く
政治をとるぐらいは
何でもありません。
しかし、
『論語』を読むかぎりでは
冉求は才能豊かであっても
君子(人格者)ではなく
損得勘定で動く
小人のほうに捉えてしまう。
冉求曰、
非不說子之道、力不足也、
子曰、力不足者、
中道而廢、今女畫、雍也6-12
冉求が
うれしく思わない
わけではありませんが…
といったので、
先生はいわれた、
進めるだけは進んで
中途でやめることになるが…
孔子曰く
始めっから
見きりをつけている❕
子曰、
求也退、故進之、先進11-22
孔子曰く
それをはげましたのだ。
子華使於齊、冉子爲其母請粟、
子曰、與之釜、請益、曰與之庾、
冉子與之粟五秉、
子曰、赤之適齊也、乘肥馬、
衣輕裘、吾聞之也、
君子周急不繼富、雍也6-4
孔子の弟子の公西赤が、
孔子の用事で斉に使いにいった。
冉求は、
その留守宅の母親のために
穀物をほしいとねがった。
先生は
分量だけ
あげなさい。
といわれたので、
増してほしい
とねがうと
分量だけ
あげなさい。
といわれた。
冉求は、
独断で
80000合の穀物を
とどけた。
先生はいわれた、
出かけたときは、
肥馬に乗り
軽い毛衣を着ていた
くらいだ。
孔子曰く
君子は
貧しい者には
その不足を補ってやるが、
金持ちに
不足をおぎなうことは
しないものだ。
紀元前492年
孔子一行は主君を求めて
亡命の旅を続けていました。
一方
魯国の権臣 季桓子は晩年になって
過去に孔子を重用しなかったために
魯を強国にして繁栄させる機会を失ったと後悔し、
息子の季康子に孔子に戻ってもらうように遺言しました。
そして 季桓子は死に、季康子がその後を継ぎました。
季康子は父の葬儀をすますと、
さっそく孔子を呼び戻そうとしましたが、
家来の公之魚がこれを阻みます。
彼は季康子にこう説きました。
一度孔子を登用されましたが、
最後まで用いなかったので、
諸侯の物笑いとなりました。
最後まで用いなければ、
またまた
諸侯の物笑いと
なりましょうぞ!
それを聞いた
季康子は不安になり
どうすればよいかな?
と尋ねました。
公之魚は
招く必要はありません。
冉求でも
よいではありませんか!
孔子を招くのと
なんら変わりありません。
我々の面子は救われます
季康子は
と思い、
使いを差し向けて
冉求だけを呼び戻しました。
紀元前484年
斉が魯に攻め込んできた時、
冉求は季孫氏(季康子 )の
総責任者に任じられ、
積極的に計画をたてて、
執政の三桓(叔孫氏・季孫氏・孟孫氏)が
協力しない状況の下で、
戦うことを積極的に主張し、
左翼の軍を率いて
自ら先頭に立って、
真っ先に斉軍を攻撃し、
魯国の右翼の軍が
総崩れになった形勢の下で
斉を打ち破りました。
この戦果に驚いた
季康子が冉求の軍事的才能は
どこで身につけたのかと尋ねたら、
冉求は孔子から学んだと答え、
孔子を迎えるように勧めました。
孔子はこうやって
十四年にわたって苦労を重ねた
亡命の旅を終えて魯国に帰国したのです。
冉子退朝、
子曰、何晏也、
對曰、有政、
子曰、其事也、如有政、
雖不吾以、吾其與聞之、子路13-14
冉求が朝廷から退出してきた。
先生が
といわれると、
と答えた。
先生はいわれた、
事務(私的)だろう。
あるなら、
わたしは役に
ついていないとはいえ、
きっと相談には
あずかっているはずだ。
季子然問、仲由冉求、
可謂大臣與、
子曰、
吾以子爲異之問、曾由與求之問、
所謂大臣者、以道事君、不可則止、
今由與求也、可謂具臣矣、
曰、然則從之者與、
子曰、弑父與君、亦不從也、先進11-24
季子然が子路と冉求を
家臣にしていることを誇りに思い
「子路と冉求とはすぐれた臣といえるでしょうな。」
と孔子にたずねた。
先生はいわれた、
もっと別なことを
たずねられると
思いましたが、
なんと
子路と冉求との
ことですか。
いわれるものは
道によって
主君にお仕えして、
うまくいかないときは
身を退きますが、
この子路と冉求とは
諫めるべきときにも
諫めず、
頭数だけの臣と
いうべきでしょう。
「それでは主人のいいなりになるものですか。」
というと、
先生はいわれた、
殺すようなことには、
やはり従いません。
実際に冉求は
季康子を諌めることは出来なかった。
季氏將伐顓臾、冉有季路見於孔子曰、
季氏將有事於顓臾、
孔子曰、求、無乃爾是過與、夫顓臾,
昔者先王以爲東蒙主、且在邦域之中矣、
是社稷之臣也、何以爲伐也、
冉有曰、夫子欲之、吾二臣者、皆不欲也、
孔子曰、求、周任有言、
曰、陳力就列、不能者止、危而不持、
顚而不扶、則將焉用彼相矣、
且爾言過矣、虎兕出於柙、龜玉毀於櫝中、
是誰之過與、
冉有曰、今夫顓臾固而近於費、今不取、
後世必爲子孫憂、
孔子曰、求、
君子疾夫舍曰欲之而必更爲之辭、
丘也聞、有國有家者、
不患寡而患不均、不患貧而患不安、
蓋均無貧、和無寡、安無傾、夫如是、
故遠人不服、則修文德以來之、
既來之則安之、今由與求也、
相夫子、遠人不服、而不能來也、
邦分崩離析而不能守也、
而謀動干戈於邦內、
吾恐季孫之憂、不在於顓臾、
而在蕭牆之內也、季氏16-1
魯の季孫氏が陪臣の身でありながら
魯に保護されていた小国の顓臾を
攻め自分の領地を広めようとした。
季康子に仕えていた冉求と子路とが
孔子にお目にかかって、
事を起こそうとしています。
と申しあげた。
孔子はいわれた、
お前が
賛成したり
すすめたり
しているのではないか。
顓臾の国は、
東蒙の山の祭りの
主宰者と定めていた
由緒ある正しい
国がらである
同じ国境の中に
あるのだから、
魯の国譜代の
家来だ。
攻めたりするのだ❕
そこで冉求が
そうしたいというだけで、
どちらもしたくないのですよ。
というと、
孔子はいわれた、
あの周任のことばに
力いっぱい職務にあたり、
できないときは辞職する。
ささえることをせず、
ころんでも
助けることをしない
というのでは、
一体
あの助け役も
何の必要があろう。
お前のことばは
まちがっている。
檻から逃げ出したり、
亀の甲や宝玉が
箱の中でこわれたりしたら、
だれのあやまちかね。
お前も
責任のがれ出来ないぞ❕
冉求がいった
堅固な備えで
季孫氏の領地である
費の町の近くにおりますから、
取っておかないと
後世にはきっと
子孫の心配ごとと
なりましょう。
孔子はいわれた、
それを欲しいとは
はっきりいわないでおいて、
何とかそのいいわけをする
というようなことを、
君子は憎む。
国を治め
家を治める者は、
人民の少ないことを
心配しないで
取り扱いの
公平でないことを
心配し、
貧しいことを
心配しないで
人心の安定しない
ことを心配する。
公平であれば
貧しいという
こともなくなり、
少ないということも
なくなり、
危険もなくなるものだ。
こういう次第だから、
従わないばあいは、
文の徳を修めて
それをなつけ、
なつけてから
それを安定させるのだが、
今、子路と冉求は
遠方の人が従わないでいるのに
なつけることもできず、
国がばらばらに分かれているのに
守ることもできない、
それでいて国内で
戦争を起こそうと企てている。
季康子の心配ごとは
顓臾にはなくて、
身近い屏の内がわに
あることだろう。
季氏旅於泰山、
子謂冉有曰、女不能救與、
對曰、不能、
子曰、
嗚呼、曾謂泰山不如林放乎、八佾3-6
季孫氏は陪臣の身でありながら
泰山で旅の祭をしようとした。
これは礼に反したことである。
先生が冉求に向かって、
やめさせることが
できないのか。
といわれると、
と答えたので、
先生はいわれた、
泰山の神が非礼を
知らないはずはないと
思っているのか。
季康子は田畑の広さに応じて
軍費を徴収するように
税制を改めようとした。
孔子は反対したが、
冉求は季孫氏の長官として
この改革を進めたため、
孔子の厳しい批判を受けた。
季氏富於周公、
而求也爲之聚斂而附益之、
子曰、非吾徒也、
小子鳴鼓而攻之、可也、先進11-17
季孫氏は魯の陪臣の分際で、
周王朝建国の功労者である
魯の初代の王の父
周公旦よりも富んでいた。
それなのに、
冉求は季孫氏のために
税を取りたててさらにそれをふやした。
孔子曰く
もう冉求は
わたしたちの仲間ではないね。
君たち太鼓を鳴らして
攻めたてたらよかろう。
この事件が原因で孔子と冉求は反目したが、
しかしその後もやはり良好な関係は保持した。