”成道”を遂げた
仏陀(釈尊)は、
以後21日間、
黙然と坐禅を続け、
悟った”真理”をひとり味わい、
楽しんでいた。
そして
そのまま衆生に
伝道することなく、
入滅するつもりでいました。
開放された状態で、
生死を超越した境地
(永遠の解脱)に至ることです。
梵天勧請(ぼんてんかんじょう)
古代インドの最高神、
ブラフマン(梵天)は
意外な成り行きに心を痛めていました。
仏陀(釈尊)が悟りを開いたことは、
天も速やかに感じ、
森羅万象が喜びの奇瑞と荘厳を
現して祝福していました。
それは、
苦しみと悩みに、のたうちまわる
世の人々へのこの上ない救いが
今、完成されたからです。
ところが、
仏陀(釈尊)は悟りを
自ら楽しみ味わうのみで、
誰にもその真理を語ろうとしませんでした。
ブラフマンは、
悟りの瞑想を楽しむ
仏陀(釈尊)のもとに訪れて、
なぜ大勢の人に向かって
真実の道を説かないのかとたずねました。
静謐で深遠で難解です。
絶妙で微妙ですから、
修行を極めた者にしか
理解できません。
欲望と執着に囚われて、
貪り耽り、
追いかけている
人々にはとても伝わらない。
私はこの場を立たないのです。
説き教えても、
おそらく、
私はただ疲労困憊
するのみです
この世が
絶望と落胆のうちに
滅亡して
しまうではないか。
どうか教えを説いてほしい。
汚れの少ない人々
がいる。
あなたの教えと導きによって
真理へ導かれる
かもしれないではないか。
その教えがなかったら、
いずれは醜く汚れきった
欲望と執着の
海へむなしく
沈んでしまうのは
明らかなことだ
仏陀(釈尊)は
二度も断りました。
ところが、
あまりにも
ブラフマンの懇願が真摯なので、
ついに3度目に
禅定の坐から立ち上がったのです。
身をもって悟った
生と死、苦と楽についての真理を
多くの人々に向けて
語ることを決意したのです。
初転法輪(しょてんぽうりん)
シッダールタ(釈迦)
ではないか。
村娘の差し出す
乳粥を食べて堕落した男が、
こんなところまで
やってきたぞ。
何のつもりなのだ!?
サールナート(鹿野苑)で
修行していた五人は首をかしげた。
もともとは
シッダールタ(釈迦)の
守護のために
カピラヴァストゥから
来たあの男たちである。
何という自信に満ちた
尊い顔だろうか。
まるですべての真理を
悟りきったような
顔ではないか。
まさか・・・
そんな!?
疑いの眼差しを
向ける男達に向かって、
かつての
シッダールタ(釈迦)は、
自らが
仏陀(釈尊)
となったことを告げました。
そして、
静かに語りはじめました。
出家した身が
してはならないことが
二つある。
愛欲にふけることと、
苦行に
体をさいなむことである。
離れることから、
まず
始めなければならない。
快楽を得ているようだが、
情愛の底無しの沼に
はまっているのだから、
いくら求めても、
決して満足することはない。
痛めつけ続ける者は、
疲労と衰弱で
精神の集中が妨げられ、
通常の思考すら
ままならなくなってくる。
どうして真理への道を
歩いていると言えるだろうか
仏陀(釈尊)は、
修行を志し、
真理への道を
たどろうとするならば、
極端を離れて
「中道」を
歩むべきだと説きはじめました。
「中道」とは、
次の八つの正しい道だと
示したのである。
八正道(はっしょうどう)
偏見や固定観念に執着せず、
縁起の理(あるがまま)を見極める正しい見解
もしも人が見解
(概念化された誤った固定観念)に
よって清らかになり
得るのであるならば、
あるいは
まだ人が知識によって
苦しみを捨て得る
のであるならば、
それでは煩悩に
とらわれている人が
(正しい道以外の)
他の方法によって
清められることになるであろう。スッタニパータ
怒りや憎しみなど感情をもたない、
真実をありのままに正しく考える
心が沈んでしまってはいけない。
またやたらに多くのことを
考えてはいけない。
腥い臭気なく、
こだわることなく、
清らかな行いを
究極の拠り所とせよ。
上にも下にも、
横にでも中間にでも、
執着する妄執を
悉く去れ。”スッタニパータ
いつわり、間違ったことなど言わない、
言葉を選び正しく発言する。
傲慢は重い荷物であり、
怒りは煙であり、
虚偽の言葉は灰である。
舌は柄杓であり、
心は火(供犠)の
あるところである。
よく制御された
自己は人間の光である。
虚言を避けよ。
よく気をつけて
詐りを
なさないようにせよ。スッタニパータ
殺生や盗み、邪なことをしない、
人のためになることをする。
一切の戒律や誓いをも捨て、
(世間の)罪過あり、
あるいは罪過なき
この行為をも捨て、
「清浄である」とか
「不浄である」とか
いってねがいを求めることはなく、
それにとらわれずに行え。
-安らぎに固執することもなく。スッタニパータ
悪しき結果を生む無意味な原因を
生じさせない正しい生活。
欲張らず、自分の体に
ふさわしい規則正しい生活。
およそ生起する
性あるものは、
すべて滅び去る
性あるものである。サンユッタ・ニカーヤ
嫉見することなく、
貪ることなく、
動揺して悩まされることなく、
万物に対して平等である。スッタニパータ
がむしゃらでも怠慢でもない、
バランスのとれた正しい努力
(中道)
出家者が実践してはならない
2つの極端がある。
一つは欲望において
欲楽に耽ることであり、
他の一つは
みずから苦しめることで、
高尚ならず、
ためにならぬものである。
真理の体現者は
この両極端に近づかない。サンユッタ・ニカーヤ
無常・無我を知り、
いたずらに欲望に
とらわれない、
常に正しい教えを
心にとどめておく集中力
平静であって
常に正しい念いあり、
世間において(他人と自分と)
等しいとは思わない。
また自分が優れている
とも思わないし、
また劣っている
とも思わない。
かれには煩悩の
燃え盛ることがない。スッタニパータ
定とは
禅定(思念をこらし心静かに内面を観ること)
のことである。
常に心を集中し、平静に行動する。
〈真の修道者である〉バラモンは
(煩悩の)範囲を乗り越えている。
かれはなにものかを知り、
あるいは見て執着する
ことはあり得ない。
かれは欲を貪ることなく、
また離欲を貪ることもない。
かれはこの世ではこれが最上のものであると
妄執することもない。”スッタニパータ
四苦八苦
四苦八苦に
満ちていることを
見極めなければならない。
苦の始めであり
老いていくこと、
弱っていくこと、
この世から消えることが、
別れなければならない
“愛別離苦”
必ず会わなければならない
“怨憎会苦”
どうしても手に入らない
“求不得苦”
体のさまざまな悶えの
“五蘊盛苦”
四苦八苦
と称するのだ
5人の修行者たちは、
腰を抜かさんばかりに驚いた。
自分たちが長い年月をかけても
到達できなかった真理の道が、
溢れる泉のように現れ出てくるではないか。
澄んだ清水が渇ききった砂漠に
吸い込まれるように、
彼らの心の中には
救いの教えが注ぎこまれていった。
最後に仏陀(釈尊)は、
偉大な悟りへの道筋を
四つにまとめて締めくくった。
四聖諦(ししょうたい)
生まれてきたわれわれの
世の中の様相は
「苦」であると見極めること。
人生は、
生・老・病・死・
怨・愛別・求不得・五種蘊苦
に満ちている。
「苦」を引き起こすのは、
欲望と執着を集めることと
見極めること。
それは無明から発し、
あらゆる場面で喜びや楽しみを
得ようとする渇愛(苦の原因)を
集めているからである。
見極めた「苦」の原因、
人の世の欲望と執着を
捨て去って滅すること。
それらの渇愛を捨て去れば
苦の原因を取り除くことができ、
それこそが修行者の求める
最高の真理、境地である。
それを導く具体的な手段の
「八正道」を日々怠りなく
実践すること。
この無明と渇愛から逃れ、
苦の原因を消し去り、
輪廻転生から解脱するための
最高の方法=八正道を指す。
これらの教えを
「四諦八正道」
といい、
仏教の根幹の教義として
確立したのである。
様々な道の中でも、
八正道がもっともすぐれており、
様々な真理の中でも
[四諦]四つの句がもっともすぐれている。『ダンマパダ』(273前半)
そして、
仏陀
(釈尊)が
5人の修行者たちに
初めて法(ダルマ=真理)の輪を
展開させたことから、
「初転法輪」の説法と
言われています。
これにより、まず5人のうち
最も勝れたコンダンニャが悟りを開きました。
仏陀(釈尊)は、
思わず喜びの声をあげました。
(コンダンニャは悟ったのだ!)
彼の名は以後、
この喜びの声で呼ばれるようになりました。
残りの4人も、
まもなく悟りの境地に達することができました。
仏陀(釈尊)は
予想外に早い
5人の男の悟りに、
身をもって勝ちえた
正覚(しょうけん)の偉大さを
改めて確認したのでした。
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