現在、日本の仏教宗派は13宗です。
なぜ、日本にはいくつもの仏教宗派があるのでしょう?
それは、日本人が大陸から伝来した仏教を、
そのまま日本人の思想にしたわけではないからです。
そこには、日本人の個性的な考え方や、
独自の理解が形成され、それを生かしたからなのです。
しかし、そもそも
何故、日本人は仏教が必要だったのでしょうか?
その答えは、歴史の中にあります。
これから、紐解いて見てみましょう!
キッカケは、
朝鮮から贈られてきた仏像一体から
はじまります。
飛鳥時代
552年 百済(朝鮮半島南西部)の聖明王が金銅の仏像1体と仏具、経典が日本に贈られてきました。
第29代:欽明天皇は、この仏像を見て
西蕃の献れる仏の相貌端厳し
日本書記
と喜びました。
しかし、“この仏をまつるべきか否か”に苦心して臣下を集めて相談しました。
大臣の蘇我稲目は、
ところが
大連の物部尾輿は、
と国神の怒りを恐れて反対しました。
欽明天皇は、蘇我稲目に仏像を授けました。
蘇我稲目は寺を建てて仏像をまつりましたが、
その後、疫病が流行したため
物部尾輿は「一刻も早く仏像を捨てるべき」と
蘇我稲目の寺を焼き払い、仏像を難波の堀江に投げ捨てました。
585年 敏達天皇の時代、
蘇我稲目の子、蘇我馬子は仏教受容の度を深め
一族の娘を出家させるなどしました。
だが、またも疫病が流行し、
物部尾輿の子、物部守屋は
これを蘇我氏による仏教崇拝が原因だとし、仏像の廃棄や伽藍の焼却を行ったうえ、
尼僧らを辱しめました。
587年
病に倒れた31代:用明天皇は仏教に帰依することを群臣に伝えました。
排仏派の物部守屋は激怒しました。たが、
宮中で孤立し、河内に帰り、戦闘の準備をしていました。
用明天皇が崩御すると、後継者争いが勃発。
穴穂部皇子&物部守屋連合と、
炊屋姫&蘇我馬子連合の武力衝突が起こりました。
蘇我馬子は穴穂部皇子を襲撃して殺害。
多数の皇族を味方につけます。
蘇我馬子は守屋追討軍を組織すると、
用明天皇の子、当時14歳だった
厩戸皇子(聖徳太子)が四天王寺建立の誓いを立てて、
蘇我軍に加わり
蘇我氏は物部軍に勝利しました。
聖徳太子
593年 第33代:推古天皇(歴代天皇:最初の女帝)は
甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とし、政治を担当させました。
604年 聖徳太子は、
「和をもって貴しとなす」と
人間関係における和合の精神を強調している
第十七条憲法を定めました。
彼は、
と考えたのです。
そして、天皇に従い、仏法を敬うことを強調しました。
奈良時代
仏教は、やがて神道と結びついていきました『神仏習合』です。
「日本の神々も煩悩に苦しんでおり、仏による救済を求めている」という神身離脱説が広まりました。
715年 国神を救うための”神宮寺”が建立されました。
724年 第45代:聖武天皇が24歳で即位しました。
聖武天皇の時代(25年間)は、反乱や疫病、飢饉など次々おこり混乱の時代でした。
こうした社会不安のなか、聖武天皇が拠り所としたのは仏教でした。
仏教の力で国を護る国家鎮護の祈祷が盛んに行われました。
741年 国文寺建立の詔が出され、全国に
国分寺・国分尼寺を建立。
それぞれに僧20人、尼10人を置くことにしました。
743年 大仏造立の詔を配布
また学問仏教として「南都六宗」が成立。
僧侶らは官僚の一部として自由に行き来し、各宗派の学問を学んでいました。
平安時代
「南都六宗」の法相宗の僧が、次期天皇の座を狙ったり、大寺院に費やされる膨大な国費など「奈良仏教」の腐敗堕落が国を圧迫していました。
第50代:桓武天皇は
平安京(京都)に都を移し、奈良の寺院が京に移転することを禁じ「奈良仏教」を断ち切りました。
そして、新しい日本仏教が誕生します。
「平安二宗」です。
平安時代末期
平治の乱や源平合戦などの戦乱や、地震などの天変地異による疫病と大飢饉。
さらに、仏法を守るべき大寺院は、僧兵(武装した僧)になり巨大な武力集団になりました。
まさにブッダの入滅後1500年目に、「釈尊の教えが届かなくなり世の中が乱れる」という末法思想が貴族や庶民にも広がり
恐れられた時代でした。
これに心を痛めた法然は、出家者でなくても、誰もが”阿弥陀如仏”を信じ、それにすがることによって死んだ後、極楽浄土に生まれて悟りを開くことができるという”易行道”の考えにもとづき、ただ「阿弥陀如仏」の名をとなえることだけで極楽浄土に往生できると説いた「浄土信仰」を広めました。
938年
空也は
「南無阿弥陀如仏」をとなえつつ各地で布教し、
多くの衆生を浄土教に帰依させました。
そして、京都を中心に布教をはじめ
托鉢をして貧困にあえぐ人、病に苦しむ人を施し
水がなければ、自ら井戸を掘って人々に与えました。
人々は彼を「市聖人」
また「阿弥陀聖」と呼んで拝み讃えました。
985年
源信が40歳のときに、
阿弥陀信仰の意志を表明した最初の書といわれる
『阿弥陀仏百毫歓法』を著し、注目を集めました。
そして4年後に『往生要集』を著し、
浄土に往生するためには念仏がもっとも重要であると説きました。
この書は国内だけでなく中国の天台山にも送られ、
この本を読んで感動した天台山は
「日本小釈迦源信如来」の尊称を贈ったといいます。
1124年 良忍が
融通念仏宗を開く
1175年 法然が
浄土宗を開く
1198年 法然が『選択本願念仏集』を著す
1224年 親鸞が
浄土真宗を開く
1274年 一遍が
時宗を開く
鎌倉時代
一方、日蓮はこれら”浄土信仰”も “禅思想”も批難し、『法華経』こそが仏教の真意を説くものだとして「南無妙法蓮華経」を唱えよと説きました。
1253年 日蓮が
日蓮宗を開く
1260年 日蓮が『立正安国論』を著し、蒙古襲来を予言する。
1274年 蒙古襲来
南北朝・室町時代
京都の東山山荘を中心に、武家、公家、禅僧らの文化が融合し能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が花開いた。これを、東山文化といいます。
1469年 雪舟が中国の明から帰国し、
日本で山水画が描かれるようになりました。
江戸時代
徳川家康は、
人々を必ずいずれかの寺院に登録させるよう【寺請制度】を設け、寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なう檀家制度も出来ました。
1654年
隠元隆琦が来日し、
黄檗宗を開く
1795年 良寛が故郷(越後)に戻り、清貧生活をする。
清貧生活とは、私欲をすてて、清らかで貧しい生活することです。
江戸時代後期
本居宣長は、
とし、仏教を人間の浅知恵からでた作り事として認めませんでした。そして『古事記』など日本の古典を研究し、独自の文化・思想、精神世界(古道)を明らかにしようとする学問、
つまり国学が起りました。
この国学者たちによって提唱された神道(復古神道)と、ペリーが来航したことにより、天皇の下に結集して外国人を追い払えという尊王攘夷運動が高まり、明治維新の原動力となりました。
明治時代
第122代:明治天皇が即位
新政府は天皇を中心とした新しい国家体制を築くことを目指しました。
その結果、神道重視の政策になりました。
1868年 神仏分離令が出され、
神道と仏教、国神と仏、神社と寺院をはっきり区別させ、
仏像を神体として使用することを禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われました。
また僧侶の下に置かれていた神官の一部には、「廃仏毀釈」運動を起こし、寺院を破壊し、土地を接収する者もいました。
現在、伝統的仏教は13宗派
自身の力で悟りにいたるため、ひたすら坐禅に励む。