顔回(前521〜前481)字は子淵、 魯国の人。
顔淵(がんえん)ともいう。
孔子より三十歳わかかった、
孔子の弟子の中で最も優れた
孔門十哲の一人で
さらに
孔子の弟子には
徳行、政事、言語(弁舌の才)、文学の
聖門の四科に分けられていて
顔回は徳行第一と評され、
聖門の四科のトップの位置にいる。
孔子の最も自慢の弟子である。
顔回は、
貧しい家に生まれたが、
学問を好んだ典型として尊敬され、
顔回の住んでいた陋巷には
顔回だけを祭った顔子廟がある。
道を楽しみ学を好む
子曰、
囘也其庶乎、屢空、先進11-19
孔子先生がいわれた、
まあ理想に近いね。
富みを求めないから
よく貧乏に苦しむ。
子曰、
賢哉囘也、
一蕇食、一瓢飮、
在陋巷、人不堪其憂、
囘也不改其樂、賢哉囘也、雍也 6-11
孔子曰く
竹割り一杯のご飯と
瓢一杯の飲み物で、
路地裏で暮らしている。
他人ならその
つらさにたえられない
だろうが、
顔回は、
そうした貧窮の中でも
自分の楽しみを改めようとはしない。
えらいものだね、顔回は。
哀公問曰、弟子孰爲好學、
孔子對曰、有顔囘者、
好學、不遷怒、不貳過、
不幸短命死矣、
今也則亡、未聞好學者也、雍也6-3
哀公(あいこう)が
「お弟子のなかでだれが学問好きといえますか。」
とおたずねになった。
孔子は答えられた。
顔回という者がおりまして
学問好きでした。
怒りにまかせての
八つあたりはせず、
過ちをくりかえしませんでした。
不幸にも短い寿命で
死んでしまって、
今ではもうおりません。
学問好きという者は、
ほかには
聞いたことがありません。
季康子問、弟子孰爲好學、
孔子對曰、有顔囘者、好學、
不幸短命死矣、今也則亡、先進11-7
季康子(きこうし)が
「お弟子のなかでだれが学問好きといえますか。」
とたずねたので、
孔子は答えられた、
学問好きでしたが、
不幸にも短い寿命で
死んでしまって、
今ではもうおりません。
師・孔子について
顔淵喟然歎曰、
仰之彌高、鑽之彌堅、
瞻之在前、忽焉在後、
夫子循循然善誘人、
博我以文、約我以禮、
欲罷不能、旣竭吾才、
如有所立卓爾、
雖欲從之、末由也已、子罕9-11
顔回が
と感心してほめたたえた、
孔子先生について・・
仰げば仰ぐほど
いょいよ高く、
きりこめばきりこむほど
いよいよ堅い。
前方に認められたかと思うと、
ふいにまたうしろにある。
うちの先生は、
順序よくたくみに
人を導びかれ、
書物でわたくしを広め、
礼でわたくしをひきしめて
下さる。
やめようと思っても
やめられず💕
もはやわたしの才能を
出しつくしているのだが、
まるで足場があって
高々と立たれているか
のようで、
ついてゆきたいと思っても
手だてがないのだ~💕
優秀な「智の人」
子謂子貢曰、
女與囘也孰愈、
對曰、賜也何敢望囘、
囘也聞一以知十、
賜也聞一以知二、
子曰、弗如也、
吾與女弗如也、公冶長5-9
孔子先生が
弟子の子貢
に向かっていわれた、
どちらがすぐれているか。
子貢、これにお答えして、
どうして顔回を望めましょう。
顔回は一を聞いてそれで
十をさとりますが、
私などは一を聞いて二が
わかるだけです。
孔子先生はいわれた、
ここでは顔回が
「智の人」として優秀なことが
語られています。
『論語』 に書かれている
「智の人」とは、
智恵を身につけた人のことをいいます。
その「智の人」の中で、
優秀な人は
頭がやわらかく、
いろんな角度から
考えられることができます。
そして
一つの事に対して
いくつもの答えが出てくるのです。
子曰、
囘也非助我者也、
於吾言無所不説、先進11-4
孔子先生がいわれた、
顔回はわたくしを啓発して
助けてくれる人ではない。
わたしのいうことなら
どんなことでも嬉しいのだ。
これは、
孔子の言葉を顔回は
素早く理解し、
しかも
孔子の言うことに逆らわず、
すなおでおとなしいことを
喜んでほめた言葉です。
孔子が唯一認めた「仁の人」
「仁」とは
「仁」とは
簡単に言うと「人を愛すること」ですが
【恭敬】 つつしみうやまうこと。
【寛厚】 心が広く、態度が温厚なこと
【誠実】 まじめで、真心があること
【勤勉】 仕事や勉強に一生懸命に励むこと
【慈恵】 慈愛の心をもって他に恵み施すこと
の5つの美徳を含んでいます。
顔淵問仁、
子曰、
克己復禮爲仁、
一日克己復禮、天下歸仁焉、
爲仁由己、而由人乎哉、顔淵曰、
請問其目、子曰、
非禮勿視、非禮勿聽、
非禮勿言、非禮勿動、顔淵曰、
囘雖不敏、請事斯語矣、顔淵12-1
顔回が「仁」のことをおたずねした。
孔子先生はいわれた
内に我が身をつつしんで、
外は「礼」の規範に
たちもどるのが
「仁」ということだ。
一日でも身をつつしんで
礼にたちもどれば、
世界じゅうが仁に
なつくようになる。
仁を行なうのは
自分しだいだ。
どうして人だのみできようか。
顔回が
といったので、先生はいわれた、
礼にはずれたことは聞かず、
礼にはずれたことは言わず、
礼にはずれたことはしないことだ。
顔回はいった、
私はおろかでは
ございますが、
このおことばを実行させていただきましょう。
これは、
”克己復礼”のシーンですね
“克己復礼”とは、
「己に克ち礼を復むこと」をいい。
己の身勝手
(個人的な感情・利己的な心・自分の欲望)に
打ち克(勝)って礼にかえることが
仁(人を愛すること)になる。
この場合の「礼」とは、
社会の規範(ルール)、
慣習(昔からのならわし)、
礼儀
などです。
つまり、
人と人との調和をとるための
約束事が「礼」なんです。
それが人を愛することとなり、
世界中の人々が愛することになる。
と説いているのです。
現代人は
「人を愛する」=「自分の欲求を満足させる」と
捉えている人が多いかと思います。
これは「己の身勝手」です。
だから、
本当の「人を愛する」意味を
知らないと思います。
孔子の「仁」は、
その「人を愛する」とは
本来どのようなものかを
説いているんだと思います。
孔子は
「仁の人」になるには、
「智の人」でないとなれないと
言っています。
こんな話があります。
孔子の弟子である
子張が
楚の国の令尹の事を「仁の人」でしょうか?
と訪ねたときに
孔子は
未知、焉得仁、
公冶長5-19
仁であるためには
智者でなければならないが、
彼は智者ではない、
どうして仁といえよう。
と言いました。
顔回は優秀な智の人(智者)です。
だから「仁の人」になってもおかしくありません。
子曰、
囘也、其心三月不違仁、
其餘則日月至焉而已矣、雍也6-7
孔子曰く
顔回は三ヶ月も心を仁の徳から離さない。
そのほかの者では、
せいぜい一日か一月の
あいだしかもたないのに。
「仁」の実践。
子曰、
吾與囘言終日、不違如愚、
退而省其私、
亦足以發、囘也不愚、為政2-9
孔子先生がいわれた、
顔回はわたしと
一日じゅう話をしても、
全く従順で
異説も反対もなく、
まるで愚かのようだ。
だが引きさがってから
その
くつろいださまを観ると、
やはり、
わたしの道を発揮するのに十分だ。
これは、孔子が顔回に、
終日!熱く語っても、
反論せずに「はい、はい、」と
まるで愚か者のように
おとなしく聞いているだけなのだが。
彼自身の生活を見ると、
あべこべに孔子の方が
教えられることが多かった
ということです。
どういうことでしょうか?
では!
顔回が行った「仁」の実践を
振り返って見ましょう!
これには、まず
仁者其言也訒、
顔淵12-3
なことです!
何故控えめなのか?
爲之難、
言之得無訒乎、顔淵12-3
ものいうこともひかぇないでおれようか。
(そこが大切なところ。)
だから、反論はしないのです。
そして
當仁不譲於師、
衛霊公15-36
先生にも遠慮はいらない。
夫仁者己欲立而立人、
己欲逹而逹人、
能近取譬、
可謂仁之方也已、雍也6-30
そもそも仁の人は、
自分が立ちたいと思えば
人を立たせてやり、
自分が行きつきたいと思えば
人を行きつかせてやって、
他人のことでも自分の身近かに
ひきくらべることができる。
そういうのが仁のてだてだと
いえるだろう。
行動によって示すこと(恕=思いやり)で、
逆に孔子が教えられた(気付かされた)のです。
これこそ、まさに
「仁の人」なんですね!
曾子曰、
以能問於不能、以多問於寡、
有若無、實若虚、
犯而不校、
昔者吾友嘗、從事於斯矣泰伯8-5
才能が有るのに
無いものにたずね、
知識ゆたかであるのに
乏しいものにたずね、
有っても無いように、
充実していても
からっぽのようにして、
害を受けても
しかえしをしない。
昔、
わたしの友だち(顔回)は、
そういうことにつとめたものだ。
顔淵季路侍、
子曰、
盍各言爾志、子路曰、
願車馬衣輕裘、與朋友共、敝之而無憾、顔淵曰、
願無伐善、無施勞、子路曰、
願聞子之志、子曰、
老者安之、朋友信之、少者懷之、公冶長5-26
顔回と子路とがおそばにいたとき、
先生はいわれた、
子路はいった、
わたくしの
車や馬やきものや
毛皮の外套を
友だちと
いっしょに使って、
それがいたんでも
くよくょしないように
ありたいものです。
顔回はいった、
つらいことを
人に及ぼさないように
ありたいものです。
子路が
どうか先生の御志望を
お聞かせ下さい。
といったので、
先生はいわれた、
友だちには信ぜられるように、
若ものにはしたわれるように
なることだ。
41歳で亡くなる。
顔回は、
孔子とともに
13年間!
亡命の旅をしていました。
そして、
やっと魯の国に帰国した
その
一年後に亡くなったのです。
顔淵死、
子曰、
噫天喪予、天喪予、先進11-9
先生はいわれた、
天はわしをほろぼした。
天はわしをほろぼした。
顔淵死、
子哭之慟、
從者曰、子慟矣、
子曰有慟乎、
非夫人之爲慟、而誰爲慟、先進11-10
顔回が死んだ。
先生は哭泣して身をふるわされた。
おともの者が
「先生が働哭された!」
といったので、先生はいわれた、
一体だれのためにするんだ!
働哭されたとは、
身もだえするほどの烈しい悲しみ
を表現したものです。
これは、
孔子の行動としては異例だったので
従者はそれに驚いて出た言葉なのです。
これだけ悲しんだ孔子でしたが
葬儀に関しては、
厳格に「礼」に従って
行おうとしました。
しかし、
顔淵死、
顔路請子之車以爲之椁、子曰、
才不才、亦各言其子也、鯉也死、
有棺而無椁、吾不徒行以爲之椁、
以吾從大夫之後、不可徒行也、先進11-8
顔回が死んだ。
父の顔路は
先生の車をいただいて
その椁(棺の外ばこ)を作りたいと願った。
才能があるにせよ
才能がないにせよ、
やはりそれぞれに
わが子のことだ。
(親の情に変わりはない。)
わたしの息子の孔鯉が死んだときにも、
棺はあったが椁はなかった。
だが、
わたしは徒歩で歩いてまでして
(自分の車を犠牲にまでして)
その椁を作りはしなかった。
わたしも
大夫の末席についている
からには、
徒歩で歩くわけには
いかないのだ。
顔回の父親の顔路は、
孔子より6歳年下で、
孔子の最初の弟子の一人です。
だから、顔路は
孔子に彼の車を売ってもらって、
顔回のために
柩(ひつぎ)の外棺(そとがん)を
買い入れるように
お願いすることが言えたのでしょう。
しかし
これは「礼」に合わない
お願いだったのです。
この場合の「礼」とは、
冠・婚・葬・祭その他の儀式の定め
のことであり、
貧富と身分に応じて行うことによって、
社会的な調和をめざすものであったからです。
だから、いくら顔回が
才能があって仁の人でも、
葬儀の際には、
主君なみに華やかに飾り立てて行うのは
「礼」に反することだったのです。
孔子は、「礼」について
こう説いています。
禮與其奢也寧儉、
喪與其易也寧戚、八佾3-4
ぜいたくであるよりは
むしろ
質素にし、
お葬いには
万事ととのえるよりは
むしろ、
ととのわずとも
いたみ悲しむことだ。
子曰、
禮云禮云、玉帛云乎哉、
樂云樂云、鐘鼓云乎哉、陽貨17-11
先生がいわれた、
といっても、
玉や絹布の
ことであろうか。
といっても、
鐘や太鼓の
ことであろうか。
形式よりも
その精神こそが
大切なのだ!
つまり!
形でなく心が大事だったのです。
しかし、
孔子は顔路にはっきり言うわけにも行かず、
自分の息子の葬式でも
柩(ひつぎ)の外棺(そとがん)を
買い入れなかったことを話したのです。
顔淵死、
門人欲厚葬之、子曰、
不可、門人厚葬之、子曰、
囘也視予猶父也、予不得視猶子也、
非我也、夫二三子也、先進11-11
顔回が死んだ。
孔子の弟子たちは
立派な葬式をしたいと思った。
孔子先生は「いけない。」といわれたが、
弟子たちは立派に葬った。
孔子先生はいわれた
顔回は
わしを父のように
思ってくれたのに、
わしは子のように
してやれなかった。
この葬式は、
わたくしのしたこと
ではないのだ、
あの弟子たちが
したことなのだ。
ここでは、
顔回が、いかに同門の弟子たちに
慕われたかがわかりますね。
そして、
弟子たちは立派な葬式を行って
顔回をあの世に送ってしまいました。
しかし、
孔子が嘆かれたように
顔回もけっして喜んではいないでしょう。
なぜなら、
「礼」に反して行ってしまったからです。
これは、
孔子が息子(孔鯉)と同じように
顔回の葬儀が出来なかったことと、
「礼」の本質を理解していない
弟子たちに対して言った言葉なんです。
といったので、先生はいわれた、
礼にはずれたことは聞かず、
礼にはずれたことは言わず、
礼にはずれたことはしないことだ。
顔回はいった、
私はおろかでは
ございますが、
このおことばを実行させていただきましょう。
子謂顔淵曰、
惜乎、
吾見其進也、未見其止也、子罕9-21
先生が顔回のことをこういわれた、
彼が進むのは見たが、
止まるのは見たことがない。