「智」は『論語』の原文では、
知と表記されていています、
その意味は
【聡明】理解力があって(人格にすぐれ)賢いこと
【明智】 すぐれた智慧(知恵)
【智謀】 智慧(知恵)にあふれる
などのことを指します。
ここでは、
『論語』で言う「智の人」になるための
「智」=「知恵」を身につけるには
どうしたらいいのかを
これから読み解いて見てみましょう
知らないことを知ることから始まる
まず最初に気づくことは
自分が無知だと知ることです。
これは、決して恥ずかしいことではありません。
だって、我々はあまりにも
知らないことが多いじゃないですか!
そこに気づくのです。
『論語』では、こう言っています。
知之爲知之、
不知爲不知、
是知也、(為政2-17)
知らないことは知らないこととする、
それが知るということだ。
よく虚勢を張って
知らないのに知ったふりをする人がいます。
その場しのぎのつもりでしょうが、
相手には
既に見抜かれていることもあるのです。
見抜いた相手はどう思います?
きっと知ったふりをする人を
見下すことでしょう。
どうせ、恥をかくなら、
知らないと認めた方がいいのです。
「智」の意味の中に
「聡明」という言葉があります。
理解力があって(人格にすぐれ)賢いことです。
理解とは、
物事の道理を悟り、知ることです。
自分が知らなかったことを知るのも理解力です。
(人格にすぐれ)賢い人は、
素直に知らないと認めます。
過而不改、是謂過矣
(衛霊公15―30)
是れを本当の過ち謂う
知らないことを恐れていては何もできない。
ただ、
その後こそが大事で、
そこから奮起することです。
そうすれば、
自然と問いを求めることになり
学びの習慣を身につけることになるのです。
学習して智恵を得る
孔子はこう説いています。
性相近也、習相遠也、
〔陽貨17-2〕
しつけ(習慣や教養)でへだたる。
人は、生まれつきは似ていても、
習慣や教養で違ってくるものだと
この習慣や教養は、
学習しないと身につきません。
学を好むは知に近く、
力(つと)めて行うは仁に近く、
恥を知るは勇に近し『中庸』
学習を好むことは知恵に近づくのです。
しかし、
やたらめったら知識を得れば
いいというわけではありません。
好知不好學、其蔽也蕩、
(陽貨 17-8)
その害として
知ったかぶりになり
素質が伸びずに
とりとめがなくなる
【学習】とは
知識、行動、スキル、価値観、選考を、
新しく獲得したり、修正することです。
【学問】とは
学び習うこと。学んで得た知識。
という意味で学習と同じですね。
学ぶことは、
誰かが決めた知識に乗っかるのではなく、
ふだんから気になったことを調べたり、
本を読んだりする
自学自習を怠(おこた)らない
行動をすることです。
学びの習慣を身につけることによって
学習することとなります。
学習することによって
人生の選択肢を増やすことができ、
コミュニケーション能力が身に付いたりして
自分自身が成長でき、
自信もつき
人生を豊かなものにしてくれるのです。
学習は、何歳からでも始められます。
生而知之者、上也、
學而知之者、次也、
困而學之、叉其次也、
困而不學、民斯爲下矣、(李氏16-9)
知っている人がいたとしたら、
最高の水準だろう。
次によいのは、
事前に学んで知っておく人たちだ。
それに続くのが、
苦境に立たされてから、
慌てて学ぼうとする者だろう。
苦境に立たされても、
何も学ぼうとしない人間は
最も下等だ。
リクルートワークス研究所
「全国就業実態パネル調査2018」によれば、
自分の意志で、学問に対する取り組み
(例えば、本を読む、詳しい人に話を聞く、自分で学習する、など)
をした雇用者の割合は、
33.1%という数字になったそうです。
つまり
7割弱の人が学ぶ習慣を持っていないということです。
https://www.works-i.com/research/others/item/180807_jpsedmanabi.pdf
私達は、
いい大学を出て、いい会社に入るために
勉強をしてきたかと思います。
(私は、その道に逸(そ)れた人でしたが…)
そして、就職したら勉強は終わりです。
勉強とは勉めることを強いると書きます。
勉強はあらかじめ正解があって、
それを教えます(強いられます)
しかし、学問は問を学ぶことなのです。
自分の疑問に対する問いを、
調べ検証し正解を見つけ出すものです。
孔子自身も努力して学習し
智を求めた人です。
彼は学ぶことがいやになることがなく、
休むことなく学び、
発憤(はっぷん)して食を忘れ、
楽しんで憂(うれ)いを忘れ、
老いが今にもやって来るということも知らず、
一生絶えることなく知識を追求しました。
學如不及、猶恐失之、
(泰伯8-17)
何かを学ぶというのは、
届きそうで届かないものを
追いかけているようなものだ。
一瞬の気の緩(ゆる)みや、
ほんのちょっとでも休んでいると、
あっという間に学んだことを
忘れそうになってしまう。
恐ろしいことだ。
人はいつでも成長できる。
学問を学ぶことは、
常に新しいことに挑戦していることになる。
新たな発見が見つかるたびに喜びがおきる
「学問にゴール」はないのです。
日知其所亡、
月無忘其所能、
可謂好學也已矣、〔子張 19-5〕
月々に覚えていることを忘れまいとする、
学問好きだといって宜(よろ)しかろう
書物や生活の中から手に入れる
書物の中から学ぶ
子曰、
溫故而知新、
可以爲師矣〔為政 2-11〕
孔子先生がいわれた。
そこから新しい智慧を得るなら、
人の師となれる。
何もない状態から
新しいものを生み出すのは、
並大抵のことではありません。
孔子でさえ、最初は
何もない状態から考えていました。
しかし・・・
吾嘗終日不食、
終夜不寢、
以思、無益、
不如學也(衛霊公 15-31)。
わたしは前に
一日じゅう食事もせず、
一晩じゅう寝もしないで
考えたことがあるが、
この『論語』もそうですが、
本(書物)には、
先人が学んだ知識が、
たくさん詰まっています。
だから私たちは
本を読むことで
容易に知識を掌握することが出来るのです。
しかし、読んだだけでは頭に入っていきません。
學而時習之
〔学而 1-1〕
学んだ内容について
常に復習をすることで
頭に入ってくるのです。
あの
レオナルド・ダ・ヴィンチも
今日学んだことを
寝る前に復習したことで
頭に入れてきたそうです。
さらに
學而不思則罔、
思而不學則殆、(為政 2-15)
学んでも考えなければ、
(ものごとは)はっきりしない。
考えても学ばなければ、
(独断におちいって)危険である。
読んで学んだことを
分析し思考することで
新たな発見、新しい収穫を
得ることができるのです。
生活の中から学ぶ
「知恵」を得るのは、
書物だけではありません。
日常生活の中でも得ることができます。
孔子が衛という国に滞在していた時、
衛の公孫朝が、
孔子の弟子の
子貢に
「孔子の知識はどこで学んだのか」
と質問すると、
子貢はこう答えました。
文武之道、
未墜於地、在人、
賢者識其大者、
不賢者識其小者、
莫不有文武之道焉、
夫子焉不學、而亦何常師之有、〔子張 19-22〕
(周の)文王・武王の道は、
まだ、
だめになってしまわないで
人に残っています。
すぐれた人は
その大きなことを覚えていますし、
すぐれていない人でも
その小さいことを覚えています。
文王・武王の道は
どこにでもあるのです。
先生はだれにでも
学ばれました。
(師)先生などは持たれなかったのです。
孔子は、
いろんな人から教えを乞いました。
官制を郯子に問い、
礼を老子に問い、
琴を師襄子に学び、
音楽のことについては萇弘に質問し、
魯の御霊屋である太廟に行った時には
1つ1つ質問しました。
多聞擇其善者而從之、
多見而識之、知之次也、(述而 7-27)
多くのことを聞いて回り、
その中から善さそうなものを
選択してそれに従い、
多くのものを見て回って、
これを覚えておく。
こんな(お勉強)は、
(知る)ということに比べれば二の次だ
孔子は、
聞いて学んだだけでなく、
相手を見て、
そこから学ぶこともしました。
我三人行、必得我師焉、
擇其善者而從之、
其不善者而改之、〔述而 7-21〕
きっとそこに自分の師をみつける。
善い人を選んでそれに見習い、
善くない人にはその善くないことを
我が身に置き換えて直すからだ。
見賢思齊焉、
見不賢而内自省也、〔里仁 4-17〕
“自分もこうなりたい”と思い、
つまらない人を見たときには、
“自分もまさにこうだな”と反省することだ
臨機応変に対応できる知恵
学習をしていない人は、
いろんなことを知らないので、
ひとつの方向でしか考えることができません。
そして、
自分と考え方が違う人は
受け入れられないのです。
學則不固、
(学而1-8)
学問をすることで、
頭をやわらかくし、
いろんな角度から
考えられるようになります。
いろんな角度から
考えられるようになると
今度は、
一つの事に対して
いくつも答えが出てくるようになります。
この頭のやわらかさが
いくつもの発明を生み出すのです。
孔子は弟子の子貢に、
同じ弟子の顔回と
“どちらが優れているのか”を聞きました。
聞一以知十、
〔公冶長 5-9〕
”一を聞いて、
それを十の事を悟る”
いろいろなバリエーションを考えて
応用できる人が、頭がいい人
子貢は顔回の聡明さに及ばないと言って。
顔回は一を聞いて十を知り、
一つのことを通して
十のことを類推することができる。
【類推】
特定の事物に基づく情報を、他の特定の事物へ、
それらの間の何らかの類似に基づいて適用する認知過程である。
孔子は子貢の意見に同意し、
謙虚に顔回を誉め称えてこう言いました。
吾與女弗如也、
〔公冶長 5-9〕
さらに、
頭がやわらかくなると
状況にあわせて
臨機応変に対応することができます。
甯武子、
邦有道則知、邦無道則愚、
其知可及也、其愚不可及也、(公冶長 5-21)
衛の国の大夫であった
甯武子
は
実に立派な人物だった。
国に道理が通っているときは、
彼は知者として現れた。
ところが
国に道理が通らなくなると
愚か者になってみせた。
その知者ぶりは、
真似できなくもないが、
その愚かぶりは、
なかなか真似できない。
と誉め称えた.
甯武子は臨機応変に対応し、
国家の政治が公明正大で
暗いところがない時には、
彼は聡明であり、
国家の政治が暗黒である時には、
彼は愚かになった。
彼の聡明さは他の人が追いつくことができるが、
その愚かさは他の人が及ぶことはできない.
孔子が、
甯武子が臨機応変であるのを称賛したのは、
政治が暗黒である時には
自分が愚かになることで
(敵をつくらず)
自己を保護して安全をまもり
社会と一緒になって自らを汚したりせず、
悪人(悪政)を助けて悪事をしたりしない、
という物事の判断が適切(腎明さ)である
ことなのです。
まとめ
最後に『論語』でいう
「知恵」を身につけるには
どうしたらいいのかをまとめてみましょう。
まず、
自分は”何も知らない”ことに
気づくことから始まります。
そして
そこから”学ぶ習慣”を身につけます!
学ぶことにゴールはありません。
学ぶ方法として
書物(本)を読んで知識を得たり
人との付き合いのなかで
我を振り返りながら学んだり
解らないことは教えてもらったりして
知識と判断力を身につけます。
こうして学ぶことにより
自分の”頭の引き出し”が増え
一つの事でも幾つものアイデアが浮かんだり
状況に合わせて臨機応変に対応出来るように
なるのです。
これが
〔生きる〕知恵を身につける
ことなのです。