ダントン
誰でしょう
この人ね
フランス革命で活躍した
代表的な政治家(革命家)なんですね。
前回の記事
「マラーの死」
にも出ていた人物です。
山岳派の指導者
ダントン、マラー、ロベスピエール
の3巨頭の話をしましたね。
マラーは前回の記事で
暗殺されてしまいました。
ロベスピエールについては
他の記事にも何回か出てきて
「恐怖政治」を行った人で
知られていますよね。
しかし、
ダントンについては
あんまり知られていません
今回は、その
ダントンが主役です。
でも、映画では
いきなり
「恐怖政治」
を廃止するかたちで
登場しますので
何も知らずに見ると
面白くありません。
そこで
映画の冒頭まで
何をしていたかを
まず見てみましょう。
ダントンについて
ジョルジュ・ジャック・ダントン
祖父は農民、
父は裁判所の書記でした。
1780年
パリへ出て法律を学び弁護士となります。
1789年
フランス革命が勃発すると
これに共感して参加することに
1790年
自分の住む街区を拠点に
コルドリエ=クラブを創設し、
ラファイエットや
バイイなどの
立憲王政派を
抗議していました。
君主制における国王の権力が
憲法によって規制されている政体のことです。
そして
彼の名を一躍有名にした事件
がおきます
「8月10日事件」です。
当時
失業者、賃金労働者、自営業などの
サン・キュロットと呼ばれた人々は
生活に苦しみ
生活改善を求めて
パリに集結していました。
これに危機感を抱いた
王妃マリー・アントワネットは
武力によって弾圧しようとしました。
これにより
パリ市民は一層激怒し
王制打倒こそが
唯一の解決策である
と考えるようになり
1792年8月10日の朝
蹶起して
テュイルリー宮殿の
国王を襲撃するという
8月10日事件(第二革命)
を起しました。
この8月10日事件を
扇動したのがダントンです。
なのでダントンは
「8月10日の男」と言われています。
また
プロイセン軍
(ドイツ北部からポーランド西部にあった王国)
が攻めてきて
国王夫妻に危害を加れば、
パリを壊滅させる
と通告!
フランス北東部の都市ヴェルダンでは
フランス軍が降伏してしまいました。
国民が動揺するなか、
ダントンは
勇気が、
常に勇気が、
さらに
勇気が必要なのだ
と言う有名な演説で
国民を鼓舞したそうです。
そして
フランス軍が勝利し
(ヴァルミーの戦い)
その翌日
1792年9月20日に
国民公会が招集され
国民公会は王政廃止を決定し、
第一共和政が開始されました。
国家元首の地位を
個人(国王)に持たせない
政治体制のことで、
国家の所有や統治上の最高決定権を
個人(国王)ではなく
人民または人民の大部分が持つことなのです。
そして
国王ルイ16世や
マリー・アントワネット
らは
ギロチン
によって処刑されたのです。
国民公会には、
派閥があり
山岳派が200人、ジロンド派が160人
その他(平原派や沼沢派)が400人いました。
山岳派は国民公会の議場の
最も高い席を占めたので
その名がつきました。
そして
山岳派の指導者には
ダントン、マラー、ロベスピエール
の3巨頭がいたのです。
国民公会が始まると
早速、派閥争いになり
山岳派とジロンド派は
対立することになりました。
1793年
山岳派3巨頭の一人
ダントンは、
フランス革命の収束をはかって
派閥争いを止めようと
ジロンド派に説得しましたが
失敗して大臣を辞任。
マラーは、
支持されている
下層民(サン・キュロット)に
ジロンド派打倒の民衆運動を誘発して
6月2日にジロンド派は国民公会を追放させ
山岳派独裁政権を成立しました。
しかし、7月13日に
マラーは、
シャルロット=コルデー
と言う女性に暗殺されます。
前回の記事
ダントン、マラーがいなくなった
山岳派はロベスピエールだけになり
その
ロベスピエールは
独裁政治に進み
片っ端から邪魔者を
ギロチンにかけて
「恐怖政治」を行いました。
これを見かねたダントンは
ダントン派(寛容派)を結成し、
「恐怖政治」の廃止や
反革命容疑者の釈放を呼びかけたのです。
映画は、ここからはじまるのです。
1794年、
ロベスピエールを中心とした
公安委員会が押し進める
恐怖政治を終わらせようと
ダントンがパリに戻って来る。
ダントンを粛清すべしという
公安委員会の他のメンバーを
ロベスピエールは抑え、
ダントンとの交渉を行う。
しかし、
ダントンは公安委員会を
独裁的として敵対的な態度で
交渉に臨む。
交渉の余地なしと理解した
ロベスピエールは
一気にダントン逮捕を行う。
《Wikipedia》より
映画の冒頭で
ロベスピエールは寝込んでいます。
一見、何か病気もちかと
思いますが、違います。
これは彼が
知人や縁者から非難され、
同僚議員たちからも
人付き合いが悪い、
陰険な性格であるなどの
人格否定を伴う
誹謗中傷を受け
山岳派の
支持者デュボワ・クランセには
彼はうぬぼれが強く、
嫉妬深い。
と批判され、大いに傷つき
神経質になって
苛立ちを感じると同時に、
政務の重圧から
次第に体調を悪化させて
鬱状態に陥って
このように寝込んでしまったのです。
上にたつ器じゃないですね~
見どころその1
ダントンとロベスピエール
の会談は見応えがありますよ。
民衆が求めているものを
知っていて
この国の未来を見通せる
カリスマ性がある
ダントン
自分よがりで
自分だけが最高の存在と
思っている独裁者
でも、
剣を見たら気を失う
ほどの小心者
ロベスピエール
ダントンは
ジロンド派もそうでしたが
相手を説得して
共に国を立て直そうとする。
慈悲深く平等な人ですが
ロベスピエールは
私の手下になれ
と上から目線(何様だ!)
やはり
うぬぼれが強いですね~
是非、2人の会談は見てほしい
1シーンですね。
見どころその2
ロベスピエールの演説のシーンです
実はロベスピエール
演説が上手くないんですね。
何故って
それは自己中だからですよ。
自己中の人は
自分にとって損か得かに
なりますからね。
あと体格的に小柄なんです。
そこを踏まえて
見てください。
面白いですよ。
見どころその3
裁判所でダントンが
演説をするシーンがあります。
本来なら出来ないのですが
そこが映画
演説のシーンを是非
入れたかったのでしょう。
ダントンが裁判所に来ている
人々に演説をするのです。
それが見事!
アンジェイ・ワイダの
伝えたいことがハッキリと
出てます。
見どころその4
あの
新古典主義絵画の巨匠
ルイ・ダヴィッド
も出ています
前回紹介した
もあります。
そして、
「最高存在の祭典」の
衣装合わせで
ロベスピエールが
「最高存在=神」
の恰好をするとこも
面白いですよ!
ダヴィッドは、
ダントンの顔をデッサンします。
どこでデッサンしたかは
言えません。
映画を見てのお楽しみ
ダヴィッドが書いた
デッサンはこれです
さあ、これだけ
見どころ満載の
映画『ダントン』
果たしてダントンは
「恐怖政治」を終わらせることが
出来るのでしょうか?
是非、あなたの目で確かめて下さい。
予告編
何故、アンジェイ・ワイダが?
アンジェイ・ワイダは
ポーランドの映画監督です。
以前、紹介しました映画
世界中に知られる巨匠で
”ポーランド派”を
代表する監督です。
この時
ポーランドは
ポーランド人民共和国の
社会主義体制時代でした。
後のポーランド映画監督である
ロマン・ポランスキーや
イエジー・スコリモフスキーなどが
政府の映画への介入(検閲)が
強まるにつれて
国外へ活動の場を
移したのに対し
アンジェイ・ワイダは
ポーランドに止まり
ポーランド体制批判の傑作を
次々と
発表し続けた人なのです。
そんな彼が
何故
突然
フランスで
映画を撮ったのでしょう。
アンジェイ・ワイダは
こう語っています。
あの日、
つまり
1981年12月13日の話を戻そう。
その日以後、何を決め、
何をするにも数週間、
数か月、
いや数年にも
わたって不毛な話し合いと
実りなき努力を
経たなければならない
という時代がやってきたのだった。
共産党はついに
その真の目的を達成し、
文字どおりすべてを
管理下に収めたが、
社会から自発性を奪うことで、
やがて
自ら墓穴を掘ることになった。
産業と貿易が相次いで破滅し、
文化活動は最低限にまで
縮小された。
この暗黒時代に
いずれ終わりが来るのか
来ないのか、
私には疑わしくなっていた。
仕事に対する意欲を
なくした私の映画は、
主題のちがいに関係なく、
かつての生気を失ってしまっていた。
自信も、
観客に対する信頼も失い、
疲れ果て、
倦怠感におそわれていた。
アンジェイ・ワイダ『映画と祖国と人生と…』より
アンジェイ・ワイダが語った
1981年12月13日とは、
”ポーランドの戒厳令”のことです。
第一書記である
ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ将軍は、
テレビ演説にて戒厳令の導入を発表
ポーランド人民軍、特殊部隊ZOMO、
そして戦車が、市内の警備を行い
外出禁止令が出され
食糧不足は深刻化し、
あらゆるメディア、
連絡に対し検閲がなされたのです。
アンジェイ・ワイダも
ポーランド映画人協会長などの職を
追われることになりました。
さらに映画館も閉鎖
活動の場がきびしくなりました。
そんなとき
1983年
フランスのゴーモン社の出資を元に、
映画『ダントン』の製作が始まったのです
当時の私の映画で
今日まで生命を永らえているのは、
パリで製作した
《ダントン》だけだ。
この映画の撮影を担当したのは、
チェコスロヴァキアを逃げ出して
長年西ドイツで仕事をしていた
イーゴル・ルターである。
ルターが
この映画の製作中に聞かせてくれた
話の中に、
彼がどのようにして
老父と最後の会話を交わしたか
という感動的なエピソードがあった。
アンジェイ・ワイダ『映画と祖国と人生と…』より
ルターの話は少し長いので
省略して書くと
彼はチェコスロヴァキアと
西ドイツの国境をはさんだ
ところまで逃亡し
そのときに
父親の姿を見かけたのです。
しかし、遠すぎて
父親が何を言っているのか解らなかった。
手元に望遠レンズのついた
カメラがあったので
必死に父親を撮り続けました。
それが数分間続き、
別れの時がやってきた。
急いで家に戻ると
すぐにフィルムを現像し、
さらに
またフィルムを一枚ずつ
壁にスライド映写したりして、
父親の身ぶりと表情を読み取っていった。
父は電話をするのも怖がっていたし、
手紙を出すこともできないので、
こういう方法で
自分の最後の意思を伝えよう
としていたのだ。
アンジェイ・ワイダ『映画と祖国と人生と…』より
そうです。
アンジェイ・ワイダは
”ポーランドの戒厳令”を
ロベスピエールの
「恐怖政治」に置き換えて
独裁政権の無意味さを
我々に訴えています。
なので
時代劇でありながら
現実を描いているのです。
それで
冒頭から
緊張感というか
不安になる雰囲気が
全編伝わってくるんですネ。
一応
原作は
ポーランドの作家
スタニスワヴァ・プシビシェフスカ
の1929年の戯曲『Sprawa Dantona』
だそうです。
一応、原作は
ポーランドなんですね~
幸い、
ベルリンの壁はもはや存在しない。
私は、存在しない壁のこちら側にある
ポーランド映画界が、
ヨーロッパ映画によくある
気取った映画を模倣するのをやめ、
今あげたような場面と映像によって、
さほど遠くない過去の現実を
世界に示す日を待ち望んでいる。
アンジェイ・ワイダ『映画と祖国と人生と…』より”
子供が唱える
人権宣言
(人間および市民の権利の宣言)
は独裁者や政治家に
露骨に訴える言葉ですね。
やはり
アンジェイ・ワイダは
素晴らしい監督です。
Data
1983年 | フランス / ポーランド |
監督: | アンジェイ・ワイダ |
出演: | ジェラール・ドパルデュー ヴォイチェフ・プショニャック |
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