ジャック=ルイ・ダヴィッド
(1748~1825)
新古典主義の
代表的画家です。
ダヴィッドが活動していたフランスは、
激動期で、フランス革命や
ナポレオン帝政の時代でした。
ダヴィッドは、
芸術家の枠を超えて
政治にも関わり
時の独裁者もとで実力を発揮し
「筆のロベスピエール」と呼ばれたり
「帝国における騎士ダヴィッド」の爵位を
与えられたりしました。
1748年
フランスのパリに商人の子として
生まれます。
1757年
ダヴィッドの父は、決闘で亡くなり
建築家である2人の叔父に育てられます。
ダヴィッドも建築の修行をしていたが
1975年ころには、画家の道を選びました。
ダヴィッドは
ロココ絵画を代表する画家
フランソワ・ブーシュ
のもとで
絵の修行をするつもりでいました。
ところが、
ブーシュは彼に
ジョセフ=マリー・ヴィアン
のもとで修業するようすすめられ
ダヴィッドは
1766年
ヴィアンの弟子になりました。
ジョセフ=マリー・ヴィアンは
ダヴィッドに
古代ギリシア・ローマの
様式と主題を題材にして
描くようにすすめていました。
ヴィアン自身も
ギリシャのイメージを
英雄的な作品ではなく、
古代風な
髪型と衣装を着た女性を
繊細なデッサンと
純粋で淡い色彩を用いて描き
成功を収めていたのです。
1771年
ダヴィッドは23歳のとき、
当時の若手画家の登竜門であった
「ローマ賞」を得ようと
王立絵画彫刻アカデミーに
「マルスとミネルヴァの戦い」を出品!
しかし、落選。
翌年も落選し
ダヴィッドは、
食を断って死のうとするほど
落胆しました。
そして、
1774年
4度目にして
念願の「ローマ賞」を獲得。
この時の作品は
『アンティオコスとストラトニケ』でした。
ローマ賞受賞者は、
国費でイタリア留学が
できる制度になっていて
ダヴィッドも、
1775年~1780年にかけて
イタリアへ留学しました。
そこで目にしたのは
古典芸術の圧倒感
とくに古代彫刻の豊かさに
すっかり打ちのめされ
今まで描いていたロココ絵画に
絶望したのです。
1781年
イタリアから帰国後に
パリのサロンに出品した作品は
喝宋をもって迎えられます。
1782年
シャルロット・ベクールと結婚。
莫大な持参金を得ます。
1783年
この頃には
すでに5人の弟子をとっていて、
そのうちの1人は
後に
ナポレオンの公式戦争画家となる
グロもいました。
1784年
ルイ16世から注文を受けて制作された
『ホラティウス兄弟の誓い』が
センセーションを巻き起こし
ダヴィッドはフランスで最も進歩的で
影響力のある画家になっていきました。
ダヴィッドは
独自の新古典主義的スタイルを
打ちたてました。
ニコラ・プッサンが確立した
古典主義手法
限定された数の人物を
水平線と垂直線を
強調した構図に
配することによって
倫理的な意味をもつ
古代史の事件を
明瞭に物語るという
物語画(歴史画)
を応用し、
古代彫刻を思わせる
大理石の
浅浮き彫り(ローレリーフ)で
人物が何層にも重なる
表現にしました。
1789年
フランス革命勃発
この年ダヴィッドは
「息子の遺骸を迎えるブルータス」
または
「ブルータスの邸に
息子たちの遺骸を運ぶ警士たち」
をサロンに発表
するとたちまち
この絵に対する抗議がおこり
ダヴィッドの弟子たちは
警護にあたって、
この絵を保護しました。
何故なら、
この絵の主題である
国家への犠牲と愛国心が、
古代ローマの王政を廃して
共和制をうちたてた話、
つまり革命の絵画に
代わってしまったからです。
この絵画に
絶対王政に対抗する
共和制の主張を感じとった
国民議会の人々は、
ダヴィッドを
く革命の芸術家〉とたたえて
彼に
「テニス・コートの誓い」を
依頼しました。
しかし、
政治的激変で
「テニス・コートの誓い」は
未完成となります。
ダヴィッドは
王立絵画彫刻アカデミーを
偽善的なエリート集団と見なし
廃止運動にとりかかります。
1792年9月20日に
国民公会が招集され
国民公会は王政廃止を決定し、
第一共和政が開始されました。
ダヴィッドもパリ選出議員に選ばれて、
山岳派に所属します。
国家元首の地位を
個人(国王)に持たせない
政治体制のことで、
国家の所有や統治上の最高決定権を
個人(国王)ではなく
人民または人民の大部分が持つことなのです。
1793年
ダヴィッドは
国王処刑に賛成投票します。
そして
国王ルイ16世や
マリー・アントワネット
らは
ギロチン
によって処刑されました。
8月
ついに
王立絵画彫刻アカデミーの
全面的な廃止に成功し、
代わって
「人民共和美術協会Jを設立しました。
ダヴィッドは
山岳派の一員だけでなく、
一般治安委員会の
委員でもありました。
そこでは
反革命分子の動静を調査する任務や
大勢の人々に刑を宣告し
禁固もしました。
最終的には「尋問部」を
統括していたのです。
そして、
独裁政治に進み
片っ端から
ギロチンにかけて
「恐怖政治」を行った
ロベスピエールの
プロパガンダに
自分の芸術を全て注ぎます。
革命の英雄を
きわめて理想化して描いた
3人の肖像画などがそうで、
ルイ16世処刑に賛成票を入れたために
旧近衛兵に暗殺された
『ルベルティエ・ド・サン・ファルゴーの死(現存してない)』や
『マラーの死』
共和派であったために
王党派の兵士に殺された少年
『バラの死(未完)』
といった作品を描きました。
1794年
国民公会の議長に就任します。
王党派だったダヴィッドの妻
シャルロット・ベクールは
ダヴィッドの
こうした行動で
2人のあいだの溝が深まり
離婚することになりました。
6月8日
革命の理念を「最高存在」として神格化した
「最高存在の祭典」を
ロベスピエールが構想し、
ダヴィドがその演出をしました。
7月27日に
ロベスピエールが率いる
山岳派独裁に対する
クーデターがおこりました。
7月28日
ロベスピエールらに
死刑判決が下され
午後6時、
ロベスピエールら22人は
革命広場で
ギロチンにより
処刑されました。
8月
ダヴィッドが
ロベスピエールを支持した罪で
逮捕されました。
ダヴィットは
国民公会の裁判にかけられたときに
ロベスピエールを非難し、
自分はだまされたと主張したのです。
そして6ヶ月の刑を受けました。
ダヴィッドは、
投獄されたことに
ショックを受け、戸惑っていました。
そんな彼のもとに
離婚した妻が
4人の子供たちとともに
訪れて慰めたのです。
さらに
ダヴィッドの釈放を
願い出たりして
彼を支えました。
1796年
ダヴィッドが釈放されると
シャルロット・ベクールは
あらためて結婚(再婚)したのです。
ダヴィッドは、
そんな彼女に感謝して
「サビニの女たち」を描きました。
1799年
ナポレオンのクーデターによって
総裁政府が倒れると、
ナポレオンは
統領政府を樹立しました。
ナポレオンは
皇帝になるイメージを
国民に植え付けるため
ダヴィッドと
その弟子たちに依頼し
プロパガンダの手段として
自分のイメージを高め、
軍事行動や帝政を美化するために
利用しました。
1804年
ナポレオンはフランス皇帝となります。
ダヴィッドも
ナポレオンの「首席画家」に命じられ
この絵が完成しました。
ダヴィッドの弟子のなかで、
ジェラール、ジロデ、グロの3人は
ナポレオンの依頼によって
皮肉にも新古典主義から
ロマン主義の間をつなぐ役割を
果たしてしまいました。
そして
グロやジロデの人気が高まるとともに、
ロマン主義運動も台頭し始め、
それとともに
ダヴィッドのスタイルはいかにも
時代遅れと思われるようになり、
彼の芸術も衰退に向かっていったのです。
1815年
ダヴィッドは、
ナポレオンが権力を失う
ようなことがあれば
自分は国賊とされてもいいと
明記した嘆頼書に署名していました。
ナポレオンは、
”ワーテルローの戦い”で敗北
退位を余儀なくされ、
セントヘレナ島へ配流となります。
これを知った
ダヴィッドは、
スイスに逃亡します。
1816年
フランスにブルボン王朝が復活すると、
ダヴィッドは、
ブリュッセルに亡命しました。
1824年
劇場から帰る途中に馬車にはねられ、
それ以後、回復することなく…
1825年12月29日
亡命先にて77年の生涯を終えました。
ダヴィッドの遺体は
フランスへ帰ることはできませんでした。
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