子曰、
若聖與仁、則吾豈敢、抑爲之不厭、
誨人不倦、則可謂云爾已矣、
公西華曰、
正唯弟子不能學也、述而7-33
先生がいわれた
孔子曰く
聖とか仁などというのは、
私などとても
及びもつかないことだ。
ただ、
聖や仁への道を行って
あきることなく、
また
人を教えて怠らない
ということは、
いってもらっても宜しかろう。
すると、
公西赤がいった。
それこそ!
我々弟子たちには、
真似の出来ないことで
ございます。
たぶん世界で初の私立学校を創設!
孔子は、
この下剋上の世の中で
理想の政治を実現するために、
それに相応しい君主を
もとめて旅をしました。
しかし現実は厳しく、
たとえ君主に気に入られても、
その家老たちの陰謀で追放され、
なかなか実力を発揮できず
迹を衛に削り、樹を宋に伐られ、
商周に窮し、陳察に囲まれ『荘子』譲王
と結局14年間も放浪の旅を
しなければなりませんでした。
ようやく祖国の魯に呼び戻された時には、
孔子は69歳です。
孔子は祖国に戻ると
私立学校を創設し
誰でも教育を受けられると呼びかけ、
広く生徒を受け入れました。
その多くは身分の低い人びと
(平民や奴隷)でしたが
中には権力や富を持った
貴族の弟子もいました。
(南宮敬叔、司馬牛、富商の子貢など)
そこには、身分関係なく、
より多くの人に
自分の思想を伝えて
君子になるように育てて
その君子になった弟子たちが
理想の政治を実現してくれることを
願ったのです。
君子とは、
もともと君主を補佐する
士大夫階級の者をさしており
その者が徳の出来上がった
理想的な人格者であって
君主を聖人の域に導く役目を果たします。
孔子先生はこう言います。
子曰、
有敎無類、衛霊公 15-39
孔子曰く
教育による違いはあるが、
生まれつきの類別はない。
だれでも教育によって
立派になる❕
そして、
弟子の知力・性格・志向などは
各々に差があり、
その人材に合わせて
教えを変える
という教育法を実行しました。
孔子先生の弟子は3000人となり
そのうち六芸を身に着けたものが
72~77人います。
これを「七十子」と呼びます。
「六芸」 とは、
古代中国で士大夫が
学ぶべき教養のことで、
「礼」=礼節(道徳)、
「楽」=音楽、
「射」=弓術、
「御」=馬術、
「書」=文学、
「数」=数学の六つです。
孔門十哲
「七十子」の中で
孔子とともに亡命し、
苦難の人生を支え、
そのうえ優秀だった
10人が
孔門十哲と
呼ばれています。
孔門十哲には
「徳行=仁徳を行動に表す才能」
「弁舌=弁舌の才能」
「政事=政治家としての才能」
「文学=詩書の才能」
という4つの科目で評価を得ています
これを聖門の四科と言います。
徳行顔淵閔子騫冉伯牛仲弓、
言語宰我子貢、
政事冉有季路、
文學子游子夏、先進11-3
徳行では
弁舌では
政事では
文学では
論語に登場する「七十子」(孔門十哲以外)
子張
(紀元前503年 - ?)
子張は字、姓は顓孫、名は師。
孔子より48歳若い、
『論語』では子路・子貢に
次いで出現回数が多く、
第十九篇は「子張篇」と
呼ばれている項目がある。
孔子の死後
儒家(孔子の弟子たち)は8派に分かれ
その1つに子張の弟子たちの「子張之儒」がある。
でも子張は孔門十哲には含められていない。
子張學干祿、
子曰、
多聞闕疑、愼言其餘、則寡尤、
多見闕殆、愼行其餘、則寡悔、
言寡尤行寡悔、祿在其中矣、為政2-18
子張が
禄(給与)を得るための
方法を学ぼうとしていた。
先生はいわれた。
疑わしいところはやめて、
自信の持てることを
慎重に言えば、
過ちは少なくなる。
あやふやなところは
やめて、
慎重に実行していけば、
後悔は少なくなる。
行動に後悔が少なければ、
自然に得られるものだ。+
特別な勉強など
というものはない。
子張問、士何如斯可謂之達矣、
子曰、何哉、爾所謂達者、
子張對曰、在邦必聞、在家必聞、
子曰、是聞也、非達也、夫達者、
質直而好義、察言而觀色、慮以下人、
在邦必達、在家必達、夫聞者色取仁而行違、
居之不疑、在邦必聞、在家必聞、顔淵12-20
子張がおたずねした。
どのようであれば
通達と
言えるのでしょう。
先生はいわれた。
お前の通達というのは。
子張がお答えして言った。
きっと評判がよく、
きっと評判がよいことです。
先生はいわれた。
通達ではない。
元来、通達というのは、
人のことばをよく考えて
顔色を見抜き、
気をつけて
人にへりくだって、
国にいてもきっと通達し、
家にいてもきっと通達することだ。
仁らしくしているが
実行はともなわず、
現在におちついて
疑いを持たず、
国にいてもきっと評判がよく、
家にいてもきっと評判がよいというものだ。
子張曰、
士見危致命、見得思義、
祭思敬、喪思哀、其可已矣、子張19-1
子張が言った。
危機を見れば
命を投げ出し
道義を考え、
敬意を払い、
悲しみを思う。
それで宜しかろう。
子張曰、
執德不弘、信道不篤、
焉能爲有、焉能爲亡、子張19-2
子張が言った。
道を信じても固くはない。
居るというほどのこともなく、
居ないというほどのこともない。
居なくても
同じだ。
子夏之門人問交於子張、
子張曰、子夏云何、
對曰、子夏曰、可者與之、其不可者拒之、
子張曰、異乎吾所聞、君子尊賢而容衆、
嘉善而矜不能、我之大賢與、於人何所不容、
我之不賢與、人將拒我、如之何其拒人也、子張19-3
子夏の弟子が、
交際について
子張にたずねた。
子張が言った。
何と言ったか。
子夏の弟子は
よくない人は
ことわるように。
といわれました。
と答えた。
子張は言った。
聞いたこととは違う。
すぐれた人を尊びながら、
一般の人々をも包容し。
だめな人にも同情する。
とてもすぐれている
のなら、
みんな包容できようし、
ことわるだろう。
人をことわる
ことがあろうか。
子賤
宓不斉(生没年未詳)字は子賤
『論語』では
一度だけしか登場していないが、
『史記』仲尼弟子列伝、
『孔子家語』、『呂氏春秋』
などに登場している。
それによると
子賤は単県の長官になる。
この時、孔子は
政治を行わせるのは
もったいない(T_T)
と批評した。
そして、
子賤はなんと
古琴を弾いているだけで
単県が治まったそうだ。
以前に単県を治めた
巫馬期は、
そのとき非常に苦労したため、
子賤があまりにも簡単に
単県を治めたことを不思議に思って
子賤にたずねてみると、
いるために
治められるのだ
と答えたという。
子謂子賤、君子哉若人、
魯無君子者、斯焉取斯、公冶長5-3
先生は
子賤のことを
こう言われた
君子だね。
こうした人物は。
でも、
もし魯の国に
君子がいなかったら、
この人(子賤)も
なかなかこうには
なれなかったろう。
原憲子思
原憲(生没年未詳)
孔子の死後、
衛の国に隠居する
その生活は
雨漏りするような
粗末なあばら家に住み、
琴を弾きながら
歌う生活をしていたそうな。
ある日、
孔子の弟子仲間であった
子貢が訪れた。
子貢は富裕な生活を送っており、
美しい衣装と立派な馬車に乗っていた。
訪れた子貢は
原憲の姿を見て、
病んで(苦しんで)
おられる事か
と嘆いて言った。
原憲は答えた
財産が無い者を
貧しいと言い、
それを行えない事を
病む(苦しむ)と
いうのか❕
貧しくはあるが、
病んでなどいない
さらに原憲は
周囲にへつらう者を友とし、
学問をし、
謝礼の為に
他人に学問を教え、
誤魔化し、
飾り立てる
といった行動は、
とても出来ない❕
と子貢を
痛烈に批判した。
子貢は
(´;ω;`)
大いに恥じ入り、
生涯
己の発言を
悔やんだと言われる。
憲問恥、
子曰、邦有道穀、
邦無道穀、恥也、憲問14-1
原憲が
恥について
おたずねした。
先生はいわれた。
仕官して
禄(給与)を
受けるが、
ないのに
禄(給与)を
受けるのは
公冶長
伝説によると、
公冶長は鳥と会話が出来る
という特殊能力が備わっており、
その力によって
死体の場所を知ることができた
ところが、
これがかえって犯人と疑われて
牢屋に入れられてしまった。
後に、
公冶長は雀の言葉を理解できることを
実証してみせたために釈放出来たそうな。
子謂公冶長、可妻也、
雖在縲紲之中、非其罪也、
以其子妻之、公冶長5-1
先生は
公冶長のことを
娘をめとらせてもよい。
彼の罪ではなかった。
といわれ、
自分の娘をめとらせた。
顔路
顔回の
父親の顔路は、
孔子より6歳年下で、
孔子の最初の弟子の一人です。
顔淵死、
顔路請子之車以爲之椁、子曰、
才不才、亦各言其子也、鯉也死、
有棺而無椁、吾不徒行以爲之椁、
以吾從大夫之後、不可徒行也、先進11-8
顔回が死んだ。
父の顔路は
先生の車をいただいて
その椁(棺の外ばこ)を作りたいと願った。
才能があるにせよ
才能がないにせよ、
やはりそれぞれに
わが子のことだ。
(親の情に変わりはない。)
わたしの息子の孔鯉が死んだときにも、
棺はあったが椁はなかった。
だが、
わたしは徒歩で歩いてまでして
(自分の車を犠牲にまでして)
その椁を作りはしなかった。
わたしも
大夫の末席についている
からには、
徒歩で歩くわけには
いかないのだ。
漆雕開
(紀元前540年 - ?)
孔子より11歳若い。
子使漆雕開仕、
對曰、吾斯之未能信、
子說、公冶長5-6
先生は
漆雕開を
仕官させようとした。
漆雕開は
それに答えてこう言った。
まだ自信が持てません
(≧▽≦)
先生は
その向学心の
あついのを喜ばれた。
南宮敬叔
姓は南宮、名は括、字は子容
魯国の三桓である孟孫氏の一族。
父である孟釐子は
すぐれた人物であり、
まだ一青年に過ぎなかった孔子を讃え、
自分が臨終のさいには、
かならず孔子に師事するようにと言いのこした。
そして父の遺言にしたがって、
兄の孟懿子と共に、
孔子に礼を学ぶために弟子入りした。
孔子が最も早い時期に
受け入れた弟子である。
また、
孔子と共に
洛陽に赴き
あの老子に
周代の礼儀制度の教えを
請うたこともある。
子謂南容、邦有道不廢、
邦無道免於刑戮、以其兄之子妻之、公冶長5-2
先生は
南宮のことを。
孔子曰く
道があるときには
きっと用いられ、
道のないときにも
死刑にふれることはない。
といわれ、
その兄さんの娘をめとらせた。
南宮适問於孔子曰、
羿善射、奡盪舟、俱不得其死然、
禹稷躬稼而有天下、
夫子不答、南宮适出、
子曰、
君子哉若人、尙德哉若人、憲問14-6
南宮が
孔子に
おたずねして言った。
舟を動かすほどの
力持ちでしたが、
ふつうの死にかたが
できませんでした。
禹と稷は
それで天下を
とりましたが・・
・・・・(・_・;)
力より徳ですか?
(・_・;)
。。。(・_・;)
先生は
答えられなかった。
南宮が
部屋から出ていくと、
先生はいわれた。
君子だね
徳を貴ぶんだね、
こういう人は。
司馬牛
姓は司馬。
名は耕または犁。
字は子牛。
兄の桓魋は
孔子を恨んでいて
報復の機会を狙っていた。
ある日、
孔子と弟子達が大きな本の下で
礼儀の演習をしていた時、
桓魋は、孔子を殺そうとして、
人をやって大本を切り倒させ、
まず孔子に自分の力を誇示した。
弟子達は
孔子に早く立ち去るように勧めたが、
孔子は落ち着いて言った。
子曰、天生德於予、
桓魋其如予何、述而7-22
先生がいわれた
天に徳を
授かった身だ。
我が身を
どうしようぞ❕
しかし、
孔子と弟子達はやはり逃げ去った。
司馬牛憂曰、
人皆有兄弟、我獨亡、
子夏曰、商聞之矣、死生有命、富貴在天、
君子敬而無失、與人恭而有禮、
四海之內、皆兄弟也、
君子何患乎無兄弟也、顔淵12-5
司馬牛は悲しんで言った。
人には皆
兄弟がいるのに、
私だけにはいない
(TдT)
子夏は言った。
富みも尊さもままならぬ。
あなたの兄さんのことも、
しかたがない。
兄ちゃん・・
君子は
人と交わるのに
丁寧にして
礼を守ってゆけば、
世界じゅうの人は
みな兄弟になる。
兄弟の無い事など
どうして気にかける
ことがあろうか
ありがとう
子夏
樊遅
姓は樊、名は須、字は子遅、
魯国の人、
孔子より36歳若い
樊遲從遊於舞雩之下、
曰、敢問崇德修慝辨惑、
子曰、善哉問、
先事後得、非崇德與、
攻其惡無攻人之惡、非修慝與、
一朝之忿忘其身以及其親、非惑與、顔淵12-21
樊遅が
先生にお供して
雨乞いに舞う台
あたりで散歩をしていた。
樊遅がおたずねした。
邪悪をのぞき
迷いを
はっきりさせる
には
先生が言われた。
その質問は。
利益は後回しにするのが、
徳をたかめること
じゃなかろうか。
悪い点を責めて
他人の
悪い点を責めないのが、
邪悪を除くこと
じゃなかろうか。
わが身を忘れたうえ、
近親まで
巻き添えにするのは、
迷いじゃなかろうか。
樊遲請學稼、
子曰、吾不如老農、請學爲圃、
子曰、吾不如老圃、樊遲出、
子曰、小人哉樊須也、
上好禮、則民莫敢不敬、
上好義、則民莫敢不服、
上好信、則民莫敢不用情、
夫如是、則四方之民、
襁負其子而至矣、焉用稼、子路13-4
樊遅が
教えてください。
と願うと。
先生はこたえられた。
ベテランの百姓には
及ばないよ。
樊遅は、
教えていただきたい
と願った。
先生はこたえられた。
ベテランの
野菜つくり
には及ばない。
樊遅が退出してから、
先生はいわれた。
樊遅は。
孔子曰く
上に立つ者が礼を好めば、
人民はみな尊敬するし。
上に立つ者が正義を好めば、
人民はみな服従するし。
上に立つ者が誠実を好めば、
人民はみな真心を働かせ
不人情になることはない。
まあ
そのようであれば、
人民はその徳を慕い、
四方の国々からも
子供を背負って
集って来るであろう。
穀物づくりを習う
必要があるものか。
有若
姓は有、名は若。
孔子より四十三歳わかい。
容姿が孔子に似ていたので、
孔子の死後、
子夏・子張・子游らが
孔子のかわりに
有若に仕えようとしたが、
曾子がこれを批判したという。
哀公問於有若曰、
年饑用不足、如之何、
有若對曰、盍徹乎、
曰、二吾猶不足、如之何其徹也、
對曰、百姓足、君孰與不足、
百姓不足、君孰與足、顔淵12-9
魯国の君主の哀公が
有若に問うて言った。
税収が足りない。
これを
どうすればいいか。
有若が答えて言った。
十分の一を
課税なさっては。
哀公が言った。
十分の二を
取っても
まだ足りないのに、
どうして
十分の一に
下げるのか💢❕
有若が答えて言った。
いったい誰と共に
不足だと言うのですか!
足りていない
というのに、
いったい誰と共に
満たそうと
するのでしょうか?
曾皙 、公西赤
子路曾晳冉有公西華、侍坐、
子曰、以吾一日長乎爾、
無吾以也、居則曰、不吾知也、
如或知爾則何以哉、子路率爾而對曰、
千乘之國、攝乎大國之閒、加之以師旅、因之以飢饉、
由也爲之、比及三年、可使有勇且知方也、夫子哂之、
求爾何如、對曰、方六七十、如五六十、
求也爲之、比及三年、可使足民也、如其禮樂、以俟君子、
赤爾何如、對曰、非曰能之也、願學焉、
宗廟之事、如會同、端章甫、願爲小相焉、
點爾何如、鼓瑟希、鰹爾舍瑟而作、對曰、異乎三子者之撰、
子曰、何傷乎、亦各言其志也、
曰、莫春者春服既成、得冠者五六人童子六七人、
浴乎沂、風乎舞雩、詠而歸、
夫子喟然歎曰、吾與點也、
三子者出、曾皙後、
曾皙曰、夫三子者之言何如、
子曰、亦各言其志也已矣、曰、夫子何哂由也、
子曰、爲國以禮、其言不讓、
是故哂之、唯求則非邦也與、
安見方六七十如五六十而非邦也者、
唯赤則非邦也與、
宗廟之事如會同非諸侯如之何、
赤也爲之小相、孰能爲之大相、先進11-26
子路と曾皙と
冉求と公西赤とが
おそばにいた。
先生がいわれた、
お前たちより
少し年うえ
だからといって、
遠慮をするな。
だれか
お前たちのことを
知って
用いてくれた
としたら、
子路が
いきなりお答えしていった、
戦闘兵車が
千台を出す程度の国が
万台を出すような大国の
間にはさまり、
戦争が起こり
飢饉が重なる
というばあい、
それを治めれば、
勇気があって
道をわきまえるように
させることができます❕
先生は
そのことばに笑われた。
お前はどうだね。
お答えしていった、
五~六十里四方の
小さいところで
私が治めれば、
ならせることが
できます。
君子に
たのみます。
お前はどうだね。
お答えしていった、
ありません
おつとめや
諸侯の
会合のとき、
章甫の冠をつけ、
助け役に
なりたいものです。
お前はどうだね。
瑟をひいていたのがとまると、
カタリとそれをおいて立ち上り、
お答えしていった、
立派なのと
違いますが。。
先生が
ただそれぞれに
抱負をのべるだけだ。
といわれると、
すっかり整うと、
青年と
ともなって、
ゆあみをし、
あたりで涼みをして、
帰って
参りましょぅ。
といった。
先生は
と感歎すると
曾皙に
賛成するよ。
といわれた。
三人が退出して、
曾皙があとに残った。
曾皙はおたずねした、
どうなのでしょうか。
先生はいわれた、
のべただけのことだよ。
なぜ子路のことを
笑われたのでしょう。
礼によるべきだが、
そのことばは
ぶしつけで
礼を
わきまえない
ようだ。
やはり邦ではないか。
五、六十里四方で
邦でないものが
どうしてあろう。
やはり邦ではないか。
諸侯のことでないとすれば
どういうことになろう。
国家のことだが、
つつましさが
子路とは違う。
しかし、
公西赤が
いささかの
助け役になるのなら、
一体だれが
大きな役になれようか。