ここに2人の少女がいます。
1人は、盲目の少女
もう1人は普通の少女
この作品には
こう言われています。
盲目の少女は、
視覚以外の感覚が
健全であることを示している。
と
はたして、
それだけの作品なのでしょうか?
まず、
2人をじっくり見てみましょう。
2人の服は、
まるでそれしかないように
着続けた感じがします。
すこし汚れもあります。
そして、
盲目の少女の膝の上には
アコーディオンが置いてあります。
だとすると、
この2人はアコーディオンを演奏し
わずかなお金を稼いで
生活をしているのでしょう。
2人は姉妹だと言われています。
盲目の少女は、姉。
そして金髪の少女は妹です。
金髪の少女は、
空を見上げています。
見上げる先に
2本の虹がかかっています。
金髪の少女は、
虹を見るために振り向いたのでしょうか?
私は、
そうではないと思うのです。
金髪の彼女は、
顔をショールで覆い隠しながら
空を見上げています。
そして右手は、
姉の手を握っているのです。
これは、
雲行きが怪しいから見たのです。
きっと、
雷がなって振り返ったと
私は察します。
そこに偶然、
虹がかかっていたのです。
雷の音は、
盲目の少女にも聞こえています。
嵐の雲と二つの虹、これはたぶん
彼女たちの人生を表しているのでしょう。
前途多難な2人の人生ですが、
支えあっていけば
道が開けてくると解釈します。
2つの虹は希望です。
それと、もう一つ
これは、人生経験を積めば
世の中が見えすぎることになります。
つまり
見えすぎる(知りすぎる)ことによって
不安や恐怖が増すのです。
金髪の妹は、
その見えすぎた人生を指して
盲目の少女は、
見えないことによって
心の安定を保っているのかもしれません。
もちろん、
雷の音が聞こえている
かもしれません。
でも、
彼女の右手には
草を握って気分を
落ち着かせているのでしょう。
そして左手で、
怖がる妹を励ましているのです。
だから、
この作品は単に
障害者を描いて
社会悪に目を向けたのではなく
人生の意味を、
このような形で表現したものだと
私は思います。
この絵を描いたミレイは
「ラファエル前派」です。
だから、この絵も
宗教的題材か
文学的要素があるかもしれません。
なので、
最後にこの言葉で締めくくります。
そこで、イエスは言われた。
「わたしは
さばきのためにこの世に来ました。
それは、
目の見えない者が見えるようになり、
見える者が盲目となるためです。」
パリサイ人の中で
イエスとともにいた人々が、
このことを聞いて、イエスに言った。
「私たちも盲目なのですか。」
イエスは彼らに言われた。
「もしあなたがたが盲目であったなら、
あなたがたに罪はなかったでしょう。
しかし、あなたがたは今、
『私たちは目が見える』と言っています。
あなたがたの罪は残るのです。」
(ヨハネ9:39〜41)
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