「禅」とは、
古代インドのサンスクリット語、
「ドフヤーナ」に由来しています。
ドフヤーナは
瞑想(めいそう)
静観(せいかん)
思念(しねん)
などという意味で、
ある対象に意識を集中して、
それに没頭していく行法のことをいいます。
お釈迦様が菩提樹の下で坐禅を組み
「われは悟りを得るまで、この座を立たず」
といい、全ての「悪魔=煩悩」を消滅させ
悟ったのが、ドフヤーナです。
ドフヤーナの中期インド語形の「ジャーナ」を
中国語に音写したのが「禅那(ぜんな)」で、
禅那を簡素な言葉にしたのが禅なのです。
禅は、
また心の安定を意味することから
「定(じょう)」とも訳され、
あわせて「禅定」ともいいます。
このお釈迦様の坐禅を
原点とするインド仏教は、
やがて中国に伝えられ、
達磨大師(だるまだいし)
によって
正統の禅がもたらされました。
達磨大師の門弟たちによって、
さらに禅の主体性と特色が発揮され、
中国全土に広まったのです。
禅の基本「四聖句」
達磨大師(だるまだいし)の教え
・不立文字(ふりゅうもんじ)
・教外別伝(きょうげべつでん)
・直指人心(じきしにんしん)
・見性成仏(けんしょうじょうぶつ)
の4つの句
これを「四聖句」といって
禅の基本思想となっています。
禅宗以外の宗旨(しゅうし)は、
すべてお釈迦様の説いた
経典を拠り所としていますから、
“教宗(きょうしゅう)”になります。
禅宗は、
文字や言葉では表現できない
お釈迦様の悟りの内容を
体験し自覚するところから
“仏心宗(ぶっしんしゅう)”といい、
体験によって経典の心をストレートに
悟るものとなっているのです。
不立文字(ふりゅうもんじ)
文字やことばには、限界があります。
ですから
お釈迦様の悟りの内容
をすべて文字で表現しつくす
ことは不可能です。
実際に体験してみることが、
どんなことばや文字にも優るのです。
また、
この真理を単に知識として知っているだけでは、
本当にわかっているとはいえません。
自分自身が仏であるという自覚と働きがなければ
知っていることにはならないからです。
ただし、
文字やことばをまったく否定するのではありません。
限界があるからこそ、
文字やことばを大事に有効に
用いなければならないというのが
不立文字(ふりゅうもんじ)の意味でもあります。
禅に語録が多いのも、こうした理由からなのです。
教外別伝(きょうげべつでん)
心から心へと、
直接体験によってのみ伝えられるとするのが、
教外別伝(きょうげべつでん)の意味するところなのです。
何かを教えるということは何かを伝えるということで、
師から弟子へと伝承するというのは、
弟子の目覚め(悟り)にほかならないと
するのが教外別伝(きょうげべつでん)の内容なのです。
こういう話があります。
ある日、
お釈迦様は霊鷲山で説法をしていたとき、
蓮の花をひねって見せたが、
その意味がわからない弟子たちの中で、
ただ一人!
摩訶迦葉
だけが微笑みを返したので、
お釈迦様は摩訶迦葉が
その意味を悟ったことを知り、
摩訶迦葉だけに真理を授けたという。
これは「拈華微笑」といい、
お釈迦様が
以心伝心(言葉にならない教え)で、
弟子に直接伝える教えなのです
まあ、極端な例ですが、
何事も自分の努力で体得して、
初めて自分のものとすることができます。
また、目にはみえないものを見抜いて、
初めて心から納得することができるのです。
これを“不伝の伝”といいます。
先生は師だけではありません。
森羅万象(しんらばんしょう)の一切が自覚の縁となるのです。
桃の花を見て覚(さと)った禅僧もいましたし、
竹に小石が当たる音を聞いて、
真の人間性を感得(かんとく)した人もいます。
直指人心(じきしにんしん)
「直ちに人の心を指す」ということですが、
私たちの心の中には、
もともと仏心がそなわっているのです。
この事実を忘れているため、
私たちは迷ってしまうのです。
そこで、
教育とか思索とかいった、
もってまわった方法をとらずに、
一直線に
「自分の心が仏心にほかならない」
と指し示すのが直指なのです。
とかく人間は
ある方法がいいと言うことになると、
目的も忘れて手段にとらわれるようになりがちです。
坐禅についても同じことがありました。
中国の唐代に
南嶽懐譲禅師というすぐれた僧がいました。
その一番弟子である
馬祖同一が、
来る日も来る日も
熱心に坐禅をしていました。
南嶽は弟子にたずねます。
そこで黙々と坐禅にふけっているようだが、
一体何をしているのか
今、一生懸命
坐禅三昧に入ろうとしています
仏(覚者)に
なるためです
といいながら庭に下りて
敷瓦のかけらを拾い、
坐り込んで、
石の上でガシガシとこすり始めます。
驚いた馬祖は、
けげんな顔をして、
南嶽に問いかけます。
一体何をなさろうとして
おられるのですか
骨折っているのさ
馬祖は笑いながら、
かわらをいくら磨いても
鏡にはなりませんよ
それを聞いた南嶽和尚は
それがわかっていて、
どうしてお前は坐禅をして
仏になろうとするんだ。
坐禅をしたって
仏にはなれんだろう
馬祖には答えることができなかった。
しばらくして教えを請うた。
成仏できないとなれば、
私はどうしたらよいのでしょうか!
南嶽和尚は、じっくりさとします。
車をたたくのがよいか、
牛を打つのがよいか?
そう教わって初めて、
馬祖は
自分がこれまで車を打つような
愚行をしていたことがわかったのです。
坐禅をすれば仏になれる(悟りが開ける)
と思い込んでいる弟子に
坐禅という手段にだけに執着し、
本来の目的を見失っていることを
気づかせたのです。
もちろん、
坐禅は大切なことには違いありません。
このように、
手段や方法ではなく
直接、自分の心を疑視して、
仏の心(本質)を見出す。
この、
自分の心の中にある仏性を
直ちに観(み)てとれということなのです。
見性成仏(けんしょうじょうぶつ)
真理すなわち仏性は外にあるのではなく、
自分の中にあるのだから、
教も伝も、ともに直指人心に通じるのです。
直ちに指し示される人心とは、
私たちの心の奥にある仏心にほかなりません。
この仏心、
つまり真の人間性に出会い、
まみえて、
自分が自分になることを
「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」
といいます。
成仏(じょうぶつ)とは
人間完成であり、人間成就のことです。
見性(けんしょう)の
「性」とは「心」と同じ意味で、
人間の本性の中に、
仏となるべき仏性が
ひそんでいるということです。
仮に、
迷いに満ちている醜い心があっても、
その心に成仏の因である仏性があり
煩悩(一切の妄念)の心に
仏となる功徳(作用・働き)が
宿っているとみすえるのが、
「見性成仏(けんしょうじょうぶつ)」
ということになります。
達磨大師が崇山の少林寺で、
ひたすら壁に向かって坐禅をしていたとき。
神光(二祖慧可禅師)が教えを求めて、
達磨を訪ねてきました。
神光は、
道を求める心が
真実であることを示すために、
みずからの肘(ひじ)を断ち切って、
まだ安らかではありません。
どうか、
私の心に安らぎを与えてください
と懇願しました。
すると、
達磨は
お前の不安だという
心を持ってこい。
そうすれば、
安らかにしてやろう
と答えたのです。
しかし、
そう言われても、
自分の心でありながら、
これが「自分の心です」と
持ち出すことはできません。
神光は、
どうしても得ることができません
(心を求むるに
遂に不可得(ふかとく)なり)
と悲痛な叫びをあげました。
達磨大師は
神光の絶望の慟哭(どうこく)を聞くと
と言い切ったのです。
達磨大師のこの一言で、
悩み続けていた神光の心の闇に
灯りがともされたのでした。
つまり、心というのは、
求めても求めても
つかめるものではない(不可得)し、
決まった形がないという事実を、
みずから観念ではなく体験として知ることによって、
心が安らいだのです。
達磨大師は、
その醜悪に無量の功徳がそなわっていて、
成仏の因となる。
すなわち、
仏の性と衆生の性とが同じ乗り物に乗っている
として、
「性」は仏でも凡夫でも
変わることがないから、
直指人心(じきしにんしん)・
見性成仏(けんしょうじょうぶつ)といったのです。
十牛図
『十牛図』とは、
牛を飼いならしてゆく話を例にして、
禅の修行の過程と
それぞれの段階における境地を
比較的にわかりやすく述べた説明図です。
第1図.尋牛
(牛を探す)
ある日、
牧人は一頭の牛が牛小屋から
逃げ出しているのに気づく。
これは、何ものにもとらわれない
真実の自己を探しにいくところ。
第2図.見跡
(牛の足あとを見つける)
牧人は牛を探す旅に出て、
幾日も探した後、牛の足跡を発見する。
足跡の先にめざすものがあるはず。
禅が何であるかを、
知識的にいちおう知った状態。
第3図.見牛
(牛を見つける)
喜び勇んで足跡をたどっていくと、
遠くに牛を見つける。
修行によって、
本来そなわっている仏性を垣間見た瞬間。
第4図.得牛
(牛をつかまえる)
さらに近づいていき、
持っている手綱で牛を捕まえる
しかし、
野生の牛は荒々しく、
手綱を一刻たりともゆるめることはできない。
ゆるめたら最後、
牛は再びどこかへ逃げてしまうだろう。
仏性をとらえてみたものの、
あなたはまだ、
煩悩(ぼんのう)の人である。
さらに修行が必要とされる。
第5図.牧牛
(牛を飼いならす)
暴れる牛をいなして、おとなしくさせる。
第6図.騎牛帰家
(牛に乗って家に帰る)
おとなしくなった牛の背中に
乗って牧人は家に帰る。
あなたと牛は一心同体なので、
牛の上に人なく、
人の下に牛なくといった境地。
第7図.忘牛存人
(牛のことを忘れる)
牛を牛小屋に入れて、
安堵した気持ちでうたた寝をする。
あなたはただ自然のなかに佇(たたず)む。
人牛一体となり、牛はもう図には現れない。
もはや牛(仏性)すら忘れて、
この大宇宙と一体化しはじめる。
第8図.人牛倶忘
(自分のことも忘れる)
“空一円相”と呼ばれる
禅画の有名な題材で、
まったくの丸い円の絵。
これは、
牧人自身とあらゆる存在の
真のありようである
”空”を悟った
人の心境を象徴したもの。
第9図.返本還源
(すべて元通りとなる)
すべてはもとに返り、源に環る。
無の世界を超えると、
元の世界に戻ってしまった。
悟った人が自身のエゴをなくし、
自然に生きられることを示している。
あなたは、
あるものをあるがままに
何の抵抗もなく受けいれるのである。
第10図.入鄽垂手
(町に出て生活する)
鄽とは町のこと。
牧人は布袋の姿となり、
市場へ行き、笑いながら人びとと交わる。
人びとは知らぬまに感化され、
心の中から苦しみや不快がとりのぞかれる。
あなたは、
本来あるがままの世界で、
あるがままに生きる自在の境地にある。