禅とは
ブッダが悟りを開いた坐禅によって
人間が本来もっている仏性を
追体験しながら、目覚めさせる教えである。
理論ではなく
すべて経験なので
師は弟子に以心伝心によって
教えを伝える。
そのための手段として
坐禅だけではなく
公案(禅問答)などがある。
また
明菴栄西は
喫茶の法を普及させた。
その伝統は
一休さんや千利休などに
伝わり
茶道へと進化したのだった。
そんな臨済宗とは
どんなものだったのか?
開祖
中国唐代の高僧・
臨済義玄(りんざいぎげん)
を開祖とする禅宗の一宗派。
伝来
明庵栄西(みょうあんえいさい)
(1141―1215)
栄西は14歳の時から
比叡山(ひえいざん)で、天台宗を学び
1168年と1184年の
二度にわたって入宋(そう)、
中国の天台山で修行し、
1191年に帰国、その後、
九州を中心に禅の布教を開始する。
1195年、博多に日本初の禅寺
“聖福寺(しょうふくじ)”を建立。
さらに
鎌倉に“寿福寺(じゅふくじ)”も建立した。
1202年
将軍・源頼家が京都に建立した
“建仁寺”を開山として迎えられる。
建仁寺では、
天台宗・真言宗・禅宗の三宗を
あわせて学べるようにし、
臨済禅ばかりでなく、仏教の総合をめざした。
本尊
“釈迦牟尼仏”
を大思教主と仰ぎ、
その因縁によって、
薬師如来、大日如来、観音菩薩などを安置している。
教えの特徴
人間に生まれつきそなわっている仏性を
修行(坐禅)によって見出し、
日常の現実世界のなかに
自己の宗教的人格を実現していくこと。
そして、
労働(作務という)を尊び、
坐禅を重んじている。
公案(こうあん)
禅宗においては、
優れた禅僧の言葉や行動などを記したものを、
課題として修行者(求道者)に
示して研究推測して考えることをさせ、
悟りを開くための手がかりとさせる。
この課題を「公案(こうあん)」と呼ぶ
特に臨済宗の坐禅行は非常に厳しく、
さとりを開かせるため、幾度となく公案が課せられる。
公案はおよそ1700あるとされ
主な公案集として『碧巌録(へきがんろく)』
『従容録(しょうようろく)』
『無門関(むもんかん)』『臨済録』
『宗門葛藤(しゅうもんかっとう)集』などが挙げられる。
修行者は坐禅をしながら、
公案として与えられた課題を、
思案くふうし、
おのずから出てきた見解(けんげ)を
師と一対一で問答する。
師と同じ見地に到達すると、
その公案の透過が許され、
また次の公案が課せられる。
見地に到達しなければ、
師は黙って手元の鈴を振るだけである。
修行者は問答を止めて引き下がり、
再くふうしなければならない。
これがいわゆる「禅問答」である。
臨済の喝(かつ)、徳山の棒(ぼう)
臨済宗の禅修行の厳しさを表現した言葉で、
“臨済禅師”と“徳山和尚”の学徒を
啓発する特色を伝えるもの。
坐禅を組み、修行している僧たちに対して、
臨済がよく大喝(だいかつ)を与え、
徳山がよく痛棒を加えたことをさしている。
『喫茶養生記(きっさようじょうき)』と 茶道
栄西(えいさい)は中国から茶葉を持ち帰り、
喫茶の法を普及させた。
また、茶の薬用効果を説いた本
『喫茶養生記(きっさようじょうき)』
も著(しる)した
喫茶は庶民の間まで広まる。
そして、臨済宗大徳寺の
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)のもとに参禅した
村田珠光(むらたじゅこう)が、
わび茶精神の始まりとされている。
さらに、
珠光の弟子の宗珠、
武野紹鴎(たけのじょうおう)らが
わび茶を発展させ、
千利休も大徳寺に参禅し、
これを完成させたといわれる。
『臨済録(りんざいろく)』
『臨済録』にみられる特徴は、
如来とか仏といった仏教用語ではなく、
宗教的人格を表す「人(にん)」ということばを使っています。
如来や仏は、人間を超越した存在ですので避けているそうです
宗教的人格者とは、
「人間とは何か」
「人間とはどうあるべきか」
「どう生きるべきか」
を自分自身に引き寄せて、
その真理をうなずきとる自覚の経験をした人です。
これを「真人(しんにん)」または、
ただの「人」と呼んでいます。
1一無位の真人
上堂云く、赤肉団上に
一無位の真人有り。
常に汝等諸人の面門より出入す。
未だ証拠せざる者は、看よ、看よ
お互いのこの生身の肉体上に、
何の位もない一人の本当の人間、
すなわち“真人”がいる。
いつでもどこでも、
お前たちの眼や耳や鼻などの
全感覚器官を出たり入ったりしている。
まだこの真人がわからないものは、
はっきり見届けよ
人間は自分をみつめるとき、
初めは実体的な自己の存在に何の疑いも持ちません。
しかし、さまざまな問題に悩み、
壁にぶつかって、
さらに自己を掘り下げてみつめていくと、
悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気がつきます。
そこで、本当の自分とは何か、人間とは何かという問題に突きあたるのです。
仏教では実体的な自己のことを
「小我(しょうが)」といい、
そのような自己は仮の自己であり、
真実の自己ではないと教えています。
真実の自己とは、「大我(たいが)」とも
「真我(しんが)」とも「仏」ともいいます。
臨済禅師は、その真実の自己を
「一無位の真人」と表現しました。
「真人」とは、真実の人間性のことで、個性や自我を超越した存在です。
その真人は、単に肉体の中に宿るだけでなく、
人間の五感を通して自由自在に出入りしています。
山をみれば自分も山となり、花をみれば自分も花となります。
肉体の中に入れば暑いとか寒いとかいい、お腹がすいたともわかる、
自由自在に出入りし、何ものにもとらわれることがないから無位の真人というのです。
その無位の真人がわかり、
それが本当の自分であると自覚するとき、
初めて「人間」の名にふさわしい存在となることができるでしょう。
2随所に主と作る
随所に主と作れば、立処皆真なり
打ちこんで行動していくならば、
そこがかけがえのない真実の世界となる
随所に主になるということは、
自分がどんな環境に置かれようとも主体性を失わずに生きていくということです。
その時、その場で無心に働けば、
その時、その場に応じてみずからを生かし、
さらに他者をも生かすことができるのです。
禅の修行も坐禅をするだけではありません。
食事、仕事、学業など生活すべてにわたって、
その時点でなすべきことに自己を完全燃焼するのが、
主体性を保つことです。
ほかのことに心を奪われず、
一事に自己を投げ出せば、
その人の発言も沈黙も、立つも座るも、
すべてが真実となるのです。
それを
「随所に主と作れば、立処皆真なり」
というのです。
物ごとが自分の思うように運んでいるとき、
または自分を意識することなく、
存分に心が動き、
無心にまで至ることがあります。
充実を覚え、生きがいを感じることができます。
随処とは、
いつでもどこでもということですから、
順調なときばかりでなく、
逆境も当然含まれます。
しかし、
逆境にあっても主体性を失わずに努力すれば、
順調なとき以上に真実の自己をみいだすことができます。
また、逆境のどん底で、
まったく自己を否定してしまったとき、
本当の無心の働き、「一無位の真人」の働きに
出会うこともあります。
このように主体性を持って生きるならば、
逆境でさえ真人の動きに目覚めさせてくれる環境となります。
つまり、充実した生き方をしていれば、
自分のまわりのものをすべて生かしきっていくことができるということなのです。
3無事是れ貴人
無事是れ貴人。
但だ造作すること莫れ。
祇だ是れ平常なり
あれこれとはからいをしてはならない。
ただ平常であることだ
この「無事」は、
何かを求めたり執着する心のないこと、
つまり、無心そのものを意味します。
また「悟りを聞こう」とか「仏になろう」などと求めたり、
とらわれることを「造作する」といい、
こうした造作をしないことが「無事」であると臨済禅師は教えてます。
「貴人」も、欲しがりもせず、
とらわれもしない人をいうのです。
人間を人間たらしめる貴人という真の人間性も併せ持っています。
「真人」を自己の中に持っているのですから、
外に向かって探し求める必要はないのです。
じたばたと造作する気持ちを静めるなら
(祇だ是れ平常なり)、
おのずから「無事の人」になれるのです。
「祇だ是れ平常なり」の「平常」には、
次のような意味があります。
まず、「平常」の
「平」は執着しないということで、
「常」とは日常生活の行住坐臥のことです。
したがって、
「祇だ是れ平常なり」は、
“執着心を離れ、
ありのままに日常を立ち居振る舞う心”
という意味になる。
平常心で行住坐臥(ぎょうじゅうざが)すれば、
そのままが仏法であり仏道であるから、
それ以外に何を求める必要があるのか、
と臨済禅師は言い切っています。
つまり、現実に生きている私たちが、
自分の心の底に埋もれている真実の自己
(一無位の真人、無事の人)に目覚め、
それを自覚するなら私たちは人生を自由に
豊かに生きていくことができると説かれているのです。
五山(ござん)
臨済宗で最高の寺格を示す代表的寺院の呼称。
インドの“五精舎(しょうじゃ)”にならって、
南宋(中国)で設けられた制度を日本が移入したもの。
日本では、
1251年に鎌倉に定められ、
1307年に“京都五山”が定められた。
しかし、
鎌倉派と京都派、
武家禅と公家禅、
寺格の順位などをめぐる
対立が激化したため、
1386年、
室町幕府により改めて
京都・鎌倉の両“五山制度”が定められた。
“京都五山”は、
南禅寺を五山の上の別格とし
- 天龍寺
- 相国(しょうこく)寺
- 建仁(けんにん)寺
- 東福寺
- 万寿寺の五寺
一方
“鎌倉五山”は、
- 建長寺
- 円覚寺
- 寿福寺
- 浄智寺
- 浄妙寺の五寺。
室町幕府中心の五山制であったが、
以後、
この位次はだいたい踏襲されてきている。
なお、京都・鎌倉の五山は、
いずれもその下に
「十刹(じっせつ)」と呼ばれる寺院をもち、
住職は代々、幕府の命令によって任じられた。
五山文学
京都・鎌倉の五山の禅僧の間に
行われた漢詩文を中心とした文学。
栄西や道元の帰国ともなって渡来してきた
宋(そう)の禅僧がその中核をなし、
なかでも
一山一寧(いっさんいちねい)
は広い知識をもった学僧で、
五山文学の頂点と言われる
『漢詩集岷峨集(びんがしゅう)』の著者
他に
雪村友梅(せっそんゆうばい)など、
多くのすぐれた門下を育成した。
応燈関の一派
いっぽう、政治権力とは関わらず、
修行一筋に勤める禅僧たちのグループがあった。
なかでも後世まで勢力をもったのは、
建長寺の南浦紹明(なんぼじょうみょう)
大徳寺の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)
妙心寺の関山慧玄(えげん)
の系統で“応燈関の一派”と呼ばれる。
現在の臨済宗は、
すべてこの“応燈関”の
後継者によって占められ、
十五寺派に分かれている。
十五寺派
建仁寺派(建仁寺)
1202年 栄西により始まる。
京都府京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町584
https://www.kenninji.jp/
東福寺派(東福寺)
1236年、宋に渡り帰国した円爾(弁円)により京都で始まる。
京都府京都市東山区本町十五丁目778番地
http://www.tofukuji.jp/
建長寺派(建長寺)
1253年、鎌倉幕府五代執権・北条時頼が
中国・宋から招いた蘭渓道隆により始まる。
神奈川県鎌倉市山ノ内8
https://www.kenchoji.com/
円覚寺派(円覚寺)
1282年 中国から招かれた無学祖元により鎌倉で始まる。
神奈川県鎌倉市山ノ内409
http://www.engakuji.or.jp/
南禅寺派(南禅寺)
1291年、無関普門により始まる。
京都府京都市左京区南禅寺福地町86
http://www.nanzen.net/
国泰寺派(国泰寺)
1300年頃、慈雲妙意により始まる。
富山県高岡市太田184
http://kokutaiji.info/
大徳寺派(大徳寺)
1315年、宗峰妙超により始まる。
京都府京都市北区紫野大徳寺町53
向嶽寺派(向嶽寺)
向嶽寺派は無本覚心の弟子である
孤峰覚明に師事した抜隊得勝により始まる
山梨県甲州市塩山上於曽2026
http://www.rinnou.net/cont_03/13kogaku/
妙心寺派(妙心寺)
1337年、関山慧玄により始まる。
京都府京都市右京区花園妙心寺町64
https://www.myoshinji.or.jp/
天龍寺派(天龍寺)
1345年、夢窓疎石により始まる。
京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68
http://www.tenryuji.com/
永源寺派(永源寺)
1361年 寂室元光により始まる。
滋賀県東近江市永源寺高野町41
http://eigenji-t.jp/
方広寺派(方広寺)
1384年、無文元選により始まる。
静岡県浜松市北区引佐町奥山1577-1
http://www.houkouji.or.jp/
相国寺派(相国寺)
1382年、夢窓疎石により始まる。
京都府京都市上京区今出川通烏丸東入相国寺門前町701
http://www.shokoku-ji.jp/s_about.html
佛通寺派(佛通寺)
1397年、愚中周及により始まる。
広島県三原市高坂町許山22
http://www.buttsuji.or.jp/
興聖寺派(興聖寺)
1603年、虚応円耳により始まる。
(1953年までは相国寺派に属した。)
京都府京都市上京区堀川通寺之内上ル二丁目上天神町647
http://www.ko-sho-ji.jp/