親鸞の教えの極意!教行信証と悪人正機説

何故!親鸞は、
「浄土三部経」とくに
『無量寿経』を重要視したのか?

それは
浄土真宗の根本聖典とされている
『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』
で明らかにされているという。

そして、何故
『悪人正機(あくにんしょうき)』では
罪を犯した悪人でも、
浄土での往生(おうじょう)が可能であると
説いたのか?

ここでは、その
『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』と
『悪人正機(あくにんしょうき)』
を読むことによって
親鸞の教えの極意を学ぼうと思います。

 

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無量寿経(むりょうじゅきょう)

親鸞の教えの極意!教行信証と悪人正機説
阿弥陀如来あみだにょらいは、もともとはある国の国王で、
世自在王仏せじざいおうぶつの説法を聞いて出家し、

法蔵菩薩ほうぞうぼさつと名乗りました。

そして、
法蔵菩薩ほうぞうぼさつは素晴らしい浄土をつくりたいという
(四十八の本願)を誓い、
長く巌しい修行の結果、
その願いは完成し、
法蔵菩薩ほうぞうぼさつ阿弥陀如来あみだにょらいとなられ、素晴らしい浄土をつくられたのです。

阿弥陀如来あみだにょらい四十八願(本願)とは、
すべての人々を平等に救いたいという願いです。
如来のこの働きがある限り、
すべての人間はかならず悟りを開くことができるのです。

本願とは、
阿弥陀如来あみだにょらいの一切衆生しゅじょう(すべての人間)を
平等に救いたいという願いのことです。

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教行信証(きょうぎょうしんしょう)

 親鸞(しんらん)は、
親鸞の教えの極意!教行信証と悪人正機説
阿弥陀如来あみだにょらい四十八願の中でも
第十八願“絶対他力(ぜったいたりき)の教えを、
自分も救われ、この世のすべての人も救われる教えだと確信しました。

そして、教行信証きょうぎょうしんしょう
行巻(ぎょうかん)」で、
「他力とは如来の本願力なり」と述べられ、

なぜ絶対他力の教えが、仏教の中で最高に価値あるものなのかを
二双四重判(にそうしじゅうはん)
真仮偽判(しんけぎはん)
2つの意味で明確に位置づけました。

 

二双四重判(にそうしじゅうはん)

仏教を
(ちょう)・(しゅつ)
の2つに分け、

さらにそれぞれ
横超おうちょう竪超じゅちょう
横出  おうしゅつ竪出じゅしゅつ
の4つに分けます

は「浄土門他力易行道じょうどもんたりきいぎょうどう」、
は「聖道門自力難行道しょうどうもんじりきなんぎょうどう」のことで、

は「はやい」、
は「おそい」という意味。

浄土門
他力易行道

聖道門
自力難行道

はやい

横超おうちょう

竪超じゅちょう

おそい

横出おうしゅつ

竪出じゅしゅつ

つまり、仏教は、「自力行」と「他力行」、

頓教とんぎょう悟りがはやいこと)」
漸教ぜんぎょう悟りがおそいこと)」に分けることができる。

この二双四重判(にそうしじゅうはん)の中で、
横超おうちょう の教えである絶対他力第十八願が、
誰でも速やかに悟りを開くことができる教えなのです。

 

真仮偽判(しんけぎはん)

親鸞(しんらん)
絶対他力第十八願の教えである
浄土真宗のみを真実とし、

他の聖道門・浄土門の一切は仮のもので

因縁果(いんえんか)の道理を
否定する教えはすべて偽りだとしています。


真実五願

阿弥陀如来あみだにょらい四十八願で、
第十八願念仏往生の願
と呼ばれています。

設我得仏 十方衆生 至心信楽 
欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚

第十八願「念仏往生の願」

設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚

(たと)ひ我れ仏に得んに十方(じっぽう)の衆生至心(ししん)に信(しん)して我が国に生まれんと(おも)ひて乃至(ないし)十念せん(も)し生まれずば正覚(しょうがく)を取らじ(ただ)(ごぎゃく)と誹謗正法(ひほうしょうぼう)をを除く」

たとえ私(法蔵菩薩ほうぞうぼさつ)が
仏になるための修行をすべて終え、
仏になることができたとしても、
すべての人々が心の底から私の救済の働きを信じ、
そして喜んで、私の浄土に往生したいと願って念仏し、
もし往生できない者が一人でもいれば、
私は仏にはならない。
ただし、
五逆の大罪を犯した者と
正しい仏教の教えを(そし)った者は除く。

親鸞は、
ここで誓われている願いを、
さらに、阿弥陀仏の四十八願の中から
第17・18・11・12・13願をそれぞれ取りだし、
教行信証きょうぎょうしんしょうの各巻
「行巻」・「信巻」・「証巻」・「真仏土巻」の冒頭にかかげています。
これを真実五願といいます。

設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚

「行巻」乃至十念ないしじゅっねん第十七願

「信巻」至心信楽ししんしんぎょう欲生我国よくしょうがこく第十八願、

「証巻」若不生者にゃくふしょうじゃ第十一願

「真仏土巻」不取正覚ふしゅしょうがく第十二、十三願

 

行巻

第十七願「諸仏称名(しょうみょう)の願」

たとえ、私が仏になるための修行をすべて終え、
仏になることができたとしても、
十方世界にいる数限りない仏が、
ことごとく私の名をほめたたえないのなら、
私はけっして悟りを開きません

と誓われている。

このように、称名念仏が
もっとも尊い行だということをあらわしています。

この念仏は、
阿弥陀如来あみだにょらいの救いの心が
名号(みょうごう)・南無阿弥陀如仏なむあみだぶつ
となって私たちに届けたものです。

称名念仏せしめられるだけで行が完成し、
不退転(ふたいてん)の位に入って
浄土往生が決定するということから、
親鸞(しんらん)
南無阿弥陀如仏なむあみだぶつを真実の行としたのです。

信巻

第十八願「念仏往生の願」

阿弥陀如来あみだにょらいの本願を信じて称名念仏すれば、
かならず浄土に往生できるという
念仏往生の根拠となるものです。

そこでは、往生の因として
至心ししん信楽しんぎょう欲生よくしゅう
の三つの信と、称名念仏が誓われています。

至心ししん とは
阿弥陀如来の真実心で、
真実心のない人間を救うためには、
阿弥陀如来が自身で完成された
真実心を人間に与えられたものです。

信楽しんぎょうとは
阿弥陀如来の智慧心です。

欲生よくしゅうとは
阿弥陀如来の慈悲です。

真実の信楽しんぎょう や真実の欲生よくしゅう
ない人間のために、
阿弥陀如来あみだにょらいは自身で完成された
信楽しんぎょう欲生よくしゅう
人間に与えて信心を因とし、
すべての人間の救われる道を完成された。

親鸞(しんらん)は、私たち人間が
何かをすれば救われるというのではなく、
すべての人間がありのままで救われる存在であるといっています。

それを、阿弥陀如来あみだにょらい
浄土往生のための因をすでにしているという形で
具体的に表現されています。

これが「如来の廻向えこう行信ぎょうしん」です。

したがって、
阿弥陀如来あみだにょらいの本願の働きを
疑いなく信じるという信心も、
人間がみずから信じる心を起こすのではありません。
「自分はかならず仏となることのできる存在である」
と知ることが信心なのです。

そして、
阿弥陀如来あみだにょらいの本願を信じて念仏しようという心が起こったとき、
摂取不捨せっしゅふしゃ(救いとられて捨てられることがない)の利益にあずかる。
これをの正定聚(しょうじょうしゅ)に入るといいます。
こうした信心に立ったとき、
「現生十種の益」といわれる大きな益が与えられます。

「現生十種の益」

1.冥衆護持(みょうしゅうゆうごじ)の益
(目に見えないところで諸天善神しょてんぜんじんに守られる益)

2.至徳具足(しとくぐそく)の益
(このうえもなく尊い人徳が身に備わる益)

3.転悪成善(てんあくじょうぜん)の益
(悪が転じられて善となる益)

4.諸仏護念(しょぶつごねん)の益
(諸仏から守られる益)

5.諸仏称讃(しょぶつしょうさん)の益
(諸仏からほめ(たた)えられる益)

6.心光常護(しんこうじょうご)の益
(阿弥陀如仏の光明(こうみょう)に包まれて、常に守られる益)

7.心多歓喜(しんたかんき)の益
(何事につけても喜びの心がわいてくる益)

8.知恩報徳(ちおんほうとく)の益の益
(恩を知り、それに報いたいと思うようになる益)

9.常行大悲(じょうぎょうだいひ)の益
(仏の大悲を人に伝える益)

10.入正定聚(にゅうしょうじょうじゅ)の益
(必ず仏になると定まった人々の仲間になることができる益)

 

証巻

第十一願「必至滅度(ひっしめつど)の願」

たとえ私が仏になるための修行をすべて終え、
仏になることができたとしても、
極楽浄土の人々が、
仏となることが定まった正定聚しょうじょうじゅの位に入り、
そして、
かならず悟りを開いて
仏となることができなければ、
私は仏とはならない


つまり、
仏となることが定まった者は、
かならず滅度(めつど)に仏の位に
入ることが誓われています。

このように、
私たちが仏となることの根拠が示されているので、
「真実の証」といいます。

 

真仏土巻

第十二願「光明無量(こうみょうむりょう)の願」

たとえ私が仏になるための修行をすべて終え、
仏になることができたとしても、
その仏の放つ光に限りがあって、
もし一千億の十兆倍の諸仏の国しか
照らすことができないようならば、
私は仏とはならない

 

第十三願「寿命無量の願」

たとえ私が仏になるための修行をすべて終え、
仏になることができたとしても、
その仏の寿命に限りがあって、
もし一千億の十兆倍の(果てしなく長い時間)
しかないようならば、
私は仏とはならない



このように、法蔵菩薩ほうぞうぼさつ
無量光(むりょうこう)
無量寿(むりょうじゅ)
誓いを完成して
阿弥陀如来あみだにょらいとなられたのです。

無量光(むりょうこう)とは、
全宇宙に阿弥陀如来あみだにょらいの智慧の光が届き、
すべての人々がその智慧の光に照らされるというもの。

無量寿(むりょうじゅ)とは、
過去・現在・未来の三世(さんぜ)にわたって、

すべての人々を救う大慈悲の働きの永遠性のことです。

三世(さんぜ)についてはこちらの記事を見てね

 

この真実五願と、
ひとたび成仏しても浄土に安住せず、
また衆生の側に戻って救済の働きをする
ことを誓った
「還相廻向(げんそうえこう)の願」第二十二願により、
衆生の往生の因と果のすべては、
如来の働きによるものであることが示されています。

 

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悪人正機説(あくにんしょうきせつ)

歎異抄たんにしょう

善人なおもて往生をとぐ、
いはんや悪人をや、しかるを、
世のひとつねにいはく、悪人なお往生す、
いかにいはんや善人をや、
この条一旦(じょういったん)そのいはれあるににたれども、
本願他力の意趣(いしゅ)にそむけり

悪人正機説(あくにんしょうきせつ)

悪人とは法律的・道徳的ではなく、
そらごと・たわごとしか知らない凡夫(ぼんぶ)であり、
外面は善人らしくよそおっていても、

内面はとん(むさぼり)・じん(いかり)・(おろか)
三毒に侵されている人のことをいいます。
そして、どんな悪人であっても救われるというのが絶対他力の教えです。

しかし、第十八願の最後に
唯五逆ただごぎゃく誹謗正法ひほうしょうぼうを除く」
とあります。

五逆(ごぎゃく)とは

  1. 父を殺す
  2. 母を殺す
  3. 僧侶を殺す
  4. 仏身を傷つけ出血させる
  5. 教団の和を乱す


の5つで、

誹謗正法ひぼうせいほう(正しい法をそしること)と並んで、
仏教上もっとも重い罪とされています。

これにたいして、
親鸞(しんらん)

唯除(ゆいじょ)五逆誹謗正法といふは、
唯除(ゆいじょ)はただのぞくといふことば也(なり)、
五逆のつみびとをきらい
誹謗のおもきとがをしらせむと也。
このふたつのつみのおもきことをしめして、
十方(じっぽう)一切の衆生みなもれず
往生すべしとしらせむとなり

 

2つの重い罪を示したのは、
本当にその罪人を除くためではなく、
それでも十方一切の衆生がみな
往生することを知らせるためとなり

私達はすべては、煩悩(ぼんのう)にまみれた
罪ぶかい凡夫(ぼんぶ)なのです。

しかし、
そんな凡夫だからこそ救わずにはおかないというのが、
阿弥陀如来の本願なのです。

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