中国の
黄檗山万福寺を
日本にもたらした
隠元
彼の教えは、
坐禅行(ざぜんぎょう)だけでは
なかった。
往生(おうじょう)浄土や念仏などの
浄土教教義
真言陀羅尼(しんごんだらに)などの
密教的要素
などを、あわせて説いていたのだ。
彼の誦経(ずきょう)は、
その独特な節廻(ふしまわ)しで
「黄檗の梵唄」
として有名になる。
また、
植物油で揚げたり炒めたりする
中国風の精進料理
普茶(ふちゃ)料理
など
他の宗派とは、まるで違う
いったい
黄檗宗とは?
中国・明代末の高僧
隠元(いんげん)
(1592-1673)
23歳の時に、
中国四大仏教名山の1つ”普陀山”
に赴(おもむ)いた際に菩提心を起こす。
翌年、
黄檗山万福寺の
鑑源興寿(がんげんこうじゅ)
のもとで出家、正式な僧となった
1652年 長崎興福寺(こうふくじ)の
逸然性融(いつねん しょうゆう)を
中心とする長崎三福寺が、崇福寺の住職に空席が生じたことから、隠元に来てもらうことを頼んだ。
しかし、隠元は
弟子の也嬾性圭を派遣、
ところが
来日の途中、難破で命を失ってしまったのである
そこで、長崎興福寺(こうふくじ)の
逸然性融(いつねん しょうゆう)らは、
隠元の来日を熱望
二十人ほどの弟子を率いて、
1654年 7月5日に長崎へ来港した。
宇治に寺地を賜わることになる。
この地に建てた寺が、
今もその特異な中国風の造りで名を知られている
「黄檗山万福寺」である。
(寺号は、中国の黄檗山から取ったもの)
以来、
日本に長く留まることを決心した隠元は、
この万福寺で本格的な布教活動を開始した。
戒律が厳しく、
社会福祉を活発に行った
黄檗宗の禅風は、停滞気味だった従来の
臨済宗にも、強い影響を与えた。
江戸・羅漢寺(らかんじ)の施餓鬼会
(餓鬼道に堕ちた人を供養する法要)
は名物になり庶民の人気も高かった
1673年
後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)より
「大光普照国師」の号を授かる
82歳で亡くなった
釈迦如来(しゃかにょらい)
特定のものはない
人間が生まれながらにして
もっている仏心を、
坐禅行(ざぜんぎょう)を行うことによって、
自らの力で見出し、
仏陀と同様の境遇を
体得させようとするもの。
仏心の発見
↓
つまりさとりの境地に到達することは
なかなかむずかしい。
しかし、
坐禅によって心身の統一をはかり、
また労働奉仕に喜びを覚え、
朝夕の写経により自己反省を促し、
厳格な食事作法に
一粒米の尊さを教える・・など、
日常生活における一挙手一投足をして
仏陀の世界へ近づけようとする精進
それが大切なのだと説く。
臨済系の宗風に明(みん)代の
“念仏禅”を加えた隠元の教えは、
往生(おうじょう)浄土や念仏などの
浄土教教義をあわせて説いて、
念禅一致をはかる一方で、
真言(しんごん)陀羅尼(だらに)などの
密教的要素も加味している。
また、漢文ではなく、
本場の唐韻(とういん)による
誦経(ずきょう)は、
木魚(もくぎょ)の音も高らかにして
諷経(ふぎん)の明の発音をそのままで、
リズミカルに唱えられる.
その独特な節廻(ふしまわ)しで
「黄檗の梵唄」として有名。
黄檗清規(おうばくしんぎ)
「清規」とは、禅僧の生活規則を定めたもの。
隠元の後継者、
木庵性瑫(もくあんしょうとう)が確立した。
普茶(ふちゃ)料理
植物油で揚げたり炒めたりする中国風の精進料理
工夫をこらした「もどき料理」(肉や魚に擬した料理)もある。
大皿に盛りつけられ、一卓に四人詰めで食事をする。
隠元によって伝えられた。
京都府宇治市五ケ庄西浦30
営業時間 10:00~16:00(L.O.14:00)
電話番号 0774-32-0700
隠元豆(いんげんまめ)
隠元が日本にもたらしたとされるものは
「隠元豆」
「隠元(いんげん)頭巾(ずきん)」
「隠元(いんげん)蒲団(ふとん)」など数多くある。
萬福寺(まんぷくじ)
山号は「黄檗山(おうばくさん)」
1659年 隠元により創建。
隠元に随行して渡来してきた
中国人の技術者によって、
中国の黄檗山万福寺に模し、
明朝時代の様式で大伽藍を建立した。
京都府宇治市五ケ庄三番割34
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崇福寺(そうふくじ)
唐寺、支那寺とも呼ばれ、
隠元が来日当時に布教活動を行った寺である。
国宝の第一峰門、大雄宝殿などがある。
長崎県長崎市鍛冶屋町7−5